- 中東戦争とは一体どんな戦争なのか?簡単に解説
- 中東戦争の勃発までのあらすじ
- パレスチナの簡単な歴史
- ユダヤ人の国家を作って欲しい!ユダヤ人によるシオニズム運動
- イギリスの三枚舌外交
- 国際連合によるパレスチナ分割案
- 第一次中東戦争
- 第二次中東戦争(スエズ戦争)
- エジプト革命とナセルの台頭
- イギリスとエジプトの対立と第二次中東戦争
- イスラエルの快進撃、イギリスの誤算
- 第三次中東戦争
- 再び対立する二国
- わずか6日間の戦争
- 主役がエジプトからサウジアラビアへ
- 第四次中東戦争
- エジプト軍の奇襲攻撃
- アラブ諸国による石油輸出制裁
- 4度の中東戦争のその後
- パレスチナの問題は中東の未来にもつながる
この記事の目次
中東戦争とは一体どんな戦争なのか?簡単に解説
中東戦争とは1948年から1973年の間に4回も繰り広げられたイスラエルの中東諸国の戦争の事です。
イスラエルは1948年にユダヤ人の国家としてパレスチナの地にて独立しましたが、このパレスチナの地には元々アラブ人が住んでおり、ユダヤ人は世界各地で迫害されていました。
しかし、第二次世界大戦におけるナチスドイツのユダヤ人迫害が明るみになると世界中がユダヤ人に同情するようになり、パレスチナの地にて建国するところまで漕ぎ着いたのでした。
中東戦争の勃発までのあらすじ
さて、中東戦争はイスラエルと中東諸国との間に起こりましたが、そうなった訳には19世紀から続く複雑な国際関係がありました。
まずはイスラエルと中東諸国がなぜ争うようになったのかを見ていきましょう。
パレスチナの簡単な歴史
むかーし昔。紀元前10世紀ごろ、パレスチナの地にはイスラエル王国というユダヤ人の王国が繁栄を築いていました。
しかし、イスラエル王国は地理的要因もあって他国からの侵攻を度々受けるようになり滅亡。パレスチナの地は属州となり、最終的には紀元前135年に属州としての立場を喪失。
ユダヤ人は世界各地に逃亡してユダヤ人は国を持たない民族となってしまったのです。
そしてローマ帝国の滅亡後、パレスチナの地にはユダヤ人ではなく、イスラム帝国が侵入。アラブ人がこの地を領有化していき、帝国は変わっていくものの、長年この地を支配していくようになったのでした。
ユダヤ人の国家を作って欲しい!ユダヤ人によるシオニズム運動
こうして、パレスチナの地はアラブ人のものとなりましたが、ユダヤ人は世界各地に潜むようになってしまいました。さらに運の悪いことに、ユダヤ人はキリスト教を敵視していたこともあり、様々な国から迫害を受けるようになります。
しかし、1894年にフランスにおいてドレフュス事件というユダヤ人将校の冤罪事件が起こると世界の知識人がユダヤ人のための国を再び作ろうと奔走。ユダヤ人の国家回復運動、いわゆるシオニズム運動を起こすようになり1919年にはこの当時パレスチナを支配していたイギリスもバルフォア宣言を承認してユダヤ人による国家を建設することを約束したのでした。
イギリスの三枚舌外交
こうしてユダヤ人はバルフォア宣言によってユダヤ人の国家を作ることを約束されましたが、約束した張本人であるイギリスは1948年までユダヤ人の国家の建設を渋っていました。
実はこれにはイギリスのとんでもない行動が隠れていたのです。
イギリスは確かにバルフォア宣言という宣言を出してユダヤ人に国家を作ることを約束したのですが、その裏側ではアラブ人に対して国家を建設するというフセイン=マクマホン協定を結び、さらにフランスとはパレスチナの地をイギリスとフランスの間で分割しようというサイクス=ピコ協定を結んでいました。
つまりは、イギリスはユダヤ人の他にアラブ人とフランスに対して協定を結ぶという三枚舌外交を行ったのですね。
さらにタチが悪いことにユダヤ人が入植し入国してこの三枚舌外交の限界が来ているとわかるとイギリスはこの問題を国際連合に丸投げ。これがいわゆるパレスチナ問題の主因となっていったのでした。
国際連合によるパレスチナ分割案
こうしてイギリスによって丸投げされたパレスチナ問題。国際連合はこの問題をなんとか穏便に済ませるべく奔走します。そして結ばれたのかパレスチナ分割案でした。
この分割案ではユダヤ人にパレスチナの56%を、アラブ人にパレスチナの44%を上げるという形で合意がとられ、このパレスチナ分割案の決議によって1948年にユダヤ人によってイスラエルが建国。ユダヤ人は約3000年ぶりにパレスチナに国家を樹立させたのでした。
しかし、元々からこの地に住んでいたアラブ人にとっては不満しかありません。
そもそもいきなりユダヤ人に56%の土地を与えるということだけでもかなり、アラブ人を舐めていると思われても仕方ありませんし、また、ユダヤ人に与えられた土地のほとんどが肥沃な土地だったのに対して、アラブ人には砂漠化が進んだ土地しかないという不公平な分割だったこともあり、アラブ人はユダヤ人を敵視するようになります。
そして、その不満はユダヤ人がイスラエルを建国したことによって一気に爆発。第一次中東戦争につながっていったのでした。
第一次中東戦争
1948年5月14日。パレスチナの地にてイスラエルは独立を宣言。19世紀から始まったシオニズム運動の成果が出たことによってユダヤ人は大喜びでした。
しかし、この独立を見てアラブ人の不満が大爆発。独立した翌日の5月15日にエジプトやサウジアラビアなどのアラブ諸国が15万の兵でパレスチナに進軍。独立して間もないイスラエルを一気に叩き潰そうとします。
しかし、ユダヤ人は長年の放浪の間に様々な国際企業や迫害によって国際社会の支持を見事に獲得。最初は押されていたのにもかかわらず、ユダヤ人はイスラエル国防軍をすぐさま結成してアラブ諸国をどんどん撃破していきました。
こうして一気に優勢となったユダヤ人は1949年に停戦。イスラエルはパレスチナの地を大幅に獲得してイスラエルの勝利に幕を閉じました。
しかし、イスラエルはこの戦争において一番肝心な都市であるエルサレムを手に入れることができず、さらにアラブ諸国はイスラエルに負けた恨みを残すことになり、その恨みは第二次中東戦争へと繋がっていったのでした。