その他の国の歴史中東

4度に渡った「中東戦争」とは?経緯からその後までわかりやすく解説

第二次中東戦争(スエズ戦争)

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こうして第一次中東戦争はイスラエルの勝利に終わりましたが、これによって戦争が終わることはありませんでした。次は1956年から1957年まで起こった第二次中東戦争について見ていきましょう。

エジプト革命とナセルの台頭

第一次世界大戦において中東諸国がイスラエルに負けると1952年に中東諸国のリーダー的立場であったエジプトにて軍事クーデターが勃発。

王政を廃止する革命へと発展して、エジプトは共和制に移行しました。

また、エジプトは当時世界で起こっていた冷戦に関わることなく国際社会に活躍するためアラブ諸国とともに非同盟主義(第三世界)として東側諸国中心の独自の関係を結んでいったのでした。

さらに1954年にナセルが首相になると当時イギリスの管轄となっていたスエズ運河にいたイギリス軍を撤退することに成功。

1956年にはスエズ運河の国有化を宣言してエジプトの国際的立場向上に努めたのでした。

イギリスとエジプトの対立と第二次中東戦争

こうしてエジプトはスエズ運河を国有化したのですが、これに対してイギリスが反発。まぁ、スエズ運河はイギリスのものでしたかね。

さらに、当時アルジェリア独立問題でもめていたフランスもこの問題に介入。こうしてエジプトvsイギリス・フランスの構図が完成したのでした。

しかし、この冷戦の時代、普通に軍事介入するとなると国民の非難もあってなかなか兵を動かすことができません。

そこで槍玉として担ぎ出されたのがイスラエルだったのです。イスラエルとエジプトは犬猿の仲。この関係を使えば国際的な非難を受けることなくエジプトを攻撃することができます。

こうして利害関係が一致したイギリスとイスラエルはエジプトに侵攻。第二次中東戦争がはじまることとなったのです。

イスラエルの快進撃、イギリスの誤算

1956年10月29日、イスラエルはイギリスの援助を受けてエジプトのシナイ半島に侵攻。大幅に強化されたイスラエル軍にエジプト軍は太刀打ちすることができず、防戦一方となり後退していきます。エジプト軍はスエズ運河を渡航不可能にするなどの措置をとりますが、それにしてもイスラエル軍は強すぎました。エジプト軍は一気に押され始めあわや降伏寸前までまで追い込まれてしまいます。こうして第二次中東戦争はイスラエルの完全勝利で終わるかと思いきや、ここで思わぬ大誤算が生まれてしまいました。

イギリスとフランスはイスラエルに加担することは正義だとしていましたが、国際社会からすれば単なる侵攻にしか見えません。

さらに、この当時冷戦で絶対に手を結ばないだろうと思われていたソ連とアメリカがスターリンの死をきっかけに徐々にその関係を改善していき、ソ連ならまだしもアメリカさえもエジプトに加担するようになります。

これはイギリスからしたら致命的な誤算でした。このままいけば国連から非難決議が出されてしまい、国際的にも孤立してしまう可能性は大です。

イギリスは国際連合の停戦協定を受け入れスエズ運河を放棄。エジプトはスエズ運河を確実に獲得し、イスラエルもイスラエルで一定の戦果を上げることに成功しました。

ちなみに、この第二次中東戦争で貧乏くじを引かされたイギリスは5億ポンドの大金をドブに捨てることとなってしまったことで、大英帝国の威信は完全に地の底に降るのはいうまでもありません。

第三次中東戦争

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こうして第二次中東戦争は戦略的にはイスラエルの勝利、政治的にはエジプトの勝利に終わりましたが、この結果国際世論の注目の目はイスラエルからエジプトに移り変わっていくことになります。こうなると割りを食うのがイスラエル。パレスチナ奪還の悲願を達成するためにはこのエジプトを潰さなければならないと感じていたのでした。

再び対立する二国

第二次中東戦争以降、一定期間は平和を取り戻していたパレスチナでしたが、1965年にパレスチナにてパレスチナ解放機構が成立すると一気にアラブ諸国とイスラエルの関係は冷え切るようになってしまいました。

1965年以降になるとパレスチナ解放機構はイスラエルに対して攻撃を開始。イスラエルはこれに対抗しようとシリアに対して示威行為を行なっていきます。

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