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タージ・マハルの歴史とは?愛と激動の建設秘話をわかりやすく解説

3-3. シャー・ジャハーン最愛の女性:ムムターズ・マハル

ムムターズ・マハルは、1595年にペルシャからの亡命貴族の家に誕生しました。シャー・ジャハーンとは3歳違いとなります。本名はアルジュマンド・バーヌー・ベーグムといい、後にシャー・ジャハーンの父であるジャハーン・ギールから与えられたムムターズ・マハルという名前は、「愛でられし王宮の光彩」、「宮廷の選ばれし者」という意味があるそうです。

1612年、ムムターズ・マハルが17歳の時に、後の皇帝となるシャー・ジャハーンと結婚します。この時からシャー・ジャハーンは彼女にぞっこんで、以後、片時も2人は離れることはなく、ムムターズ・マハルは戦地にさえ同行したそうですよ。

仲睦まじかった2人の間には14人の子が生まれました(成人したのは7人)。しかし、14人目の子を戦地で生んだ際、ムムターズ・マハルは産褥死してしまいます。36歳の若さでした。

4. タージ・マハルは完成したが…皇帝の嘆きと息子たちの争い

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ムムターズ・マハルを失ったシャー・ジャハーンは悲しみに沈むも、やがて彼女の墓廟の建設に取り掛かります。完成したタージ・マハルは、彼の愛をこめた美しいものでしたが、この間にも、帝国には暗雲が立ち込めていました。息子たちが争いを始めてしまったのです。骨肉の争いを目撃することになったタージ・マハルとムガル帝国の推移を見ていきましょう。

4-1. 悲しみに沈んだ皇帝と愛を込めたタージ・マハル

最愛の妻を失ったシャー・ジャハーンの嘆きは深く、あごひげが真っ白になってしまうほどだったそうです。歌舞音曲を好んだ彼ですが、それをぱったりとやめ、派手に着飾ることもなくなり、白い衣服だけを着続けるようになりました。加えて、以前は意欲的に取り組んでいた政務にも興味を失っていってしまったのです。

ただ、失意の皇帝がひとつだけ情熱を傾けたのが、ムムターズ・マハルのための霊廟の建設でした。莫大な資金と途方もない労働力をつぎ込み完成させたタージ・マハルですが、この建設事業だけが、彼の残りの人生における唯一のライフワークだったのかもしれません。

実は、タージ・マハルと川を挟んだ向かい側に、それと対になるシャー・ジャハーン自身の黒い墓廟を建設し、タージ・マハルと橋でつなぐというプランがあったのだそうです。しかし、これは実現することはありませんでした。

というのも、タージ・マハル建設によって財政は逼迫し、人々も疲弊して国が傾き始めてしまったからです。国家が傾くほどの建設費用とは、いかにタージ・マハルにお金がかけられていたかがわかりますね。そして、息子たちの間にも争いの火花が散り始めたのでした。

4-2. 息子たちの争い

ムムターズ・マハルの死後、愛すべきよりどころを失った悲しみを埋めるかのように、シャー・ジャハーンは漁色にふけりました。しかしそれがたたり、病に倒れてしまったのです。

そんな中で、まだ彼が存命中にもかかわらず、息子たちは次の皇帝の座を巡って争いを始めてしまいます。

シャー・ジャハーンは長男のダーラー・シコーを寵愛していましたが、三男のアウラングゼーブは大いなる野心家で、自分こそ皇帝の座にと動き出しました。そして二男と四男、娘のうち2人までもが争いに加わり、骨肉の争いは収拾のつかない事態となってしまったのです。

4-3. シャー・ジャハーンを恨む三男が後継者に

息子たちが互いに争った結果、残ったのは三男・アウラングゼーブでした。彼はすべての兄弟を打ち破ると、なんと実の父であるシャー・ジャハーンをアーグラ城の奥深くにある塔に幽閉してしまったのです。

アウラングゼーブは、長兄だけを偏愛した父を恨み、何かにつけては恨み言を滔々と述べました。しかも、殺害した長兄の首を父のもとに送りつけるという凄惨な所業をやってのけたのです。加えて、他の兄弟も殺害し、自身が帝位に就いいたのでした。

4-4. 幽閉されたシャー・ジャハーンのその後

塔に幽閉されてしまったシャー・ジャハーンは、不自由な晩年を過ごすことになりました。経済的にも困窮し、二度と城の外に出ることはなかったといいます。唯一の救いは、長女がそばに付き添っていてくれたことでしたが、老いゆくシャー・ジャハーンは、塔の窓から見えるタージ・マハルを眺めて過ごしたそうです。おそらく、ムムターズ・マハルと過ごした幸せな日々に思いを馳せたのでしょう。そして、1666年に74歳の生涯を閉じました。

死後、シャー・ジャハーンは、タージ・マハルの妻の隣に葬られ、2人は今も隣り合って眠りについています。

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