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タージ・マハルの歴史とは?愛と激動の建設秘話をわかりやすく解説

2-2. タージ・マハルを手掛けた人物は?

タージ・マハルの建設にあたり、誰が設計をしたのかが気になるところです。しかし、メインで誰が設計したかについては、はっきりとしたことはわかっていません。シャー・ジャハーンの主任建築家であるウスタード・アフマド・ラーホーリーが有力視されていますが、確定ではないようですね。

むしろ、タージ・マハルは多くの設計者・技術者による技の集合体であったと言えます。イスラーム世界から広く集められた当代一流の専門家たちが、ドーム部分・細かい彫刻部分・石組みなど多くのパーツを分けて担当し、それを建物の形にしたのですね。彼らの出身地も多彩で、ペルシャやアラブだけでなく、ヨーロッパからも集められたと言われており、その数は2万人にも達したと伝わります。

2-3. タージ・マハル建設の様子

タージ・マハルの建設期間は、17年とも22年とも言われているそうです。常に2万人が動員されており、世紀の大工事だったことがわかりますね。ヤムナー川の岸を造成するために多くの石が積み上げられたそうです。

建築資材の調達場所も多岐にわたりました。インド中から大理石や赤砂石が1,000頭以上の象によって運ばれてきたそうですが、宝石や珍しい石などは中国、チベット、スリランカ、エジプトなどからも持ち込まれました。

2-4. タージ・マハル建設に関する伝説

タージ・マハル建設に関わった者たちの中には、王妃ムムターズ・マハルに密かな思いを寄せているものがいたと伝わっています。密かに愛した女性の死に際し、彼は思いを込めてタージ・マハル建設に全力を尽くしました。

そして完成した完璧な美しさを誇る墓廟に、シャー・ジャハーンは感激し、褒美をやろうとその男を呼び寄せます。すると彼は「この墓が完成したことだけで私は満足です」と答え、そこでシャー・ジャハーンは亡き妃に対する彼の思いに気づきました。

すると、王は「褒美をやろう。両手を前に出せ」と命じ、男の両腕を切り落としてしまったということです。

3. タージ・マハルの歴史:シャー・ジャハーンとムムターズ・マハル

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タージ・マハルの歴史を語る上では、シャー・ジャハーンとムムターズ・マハルを欠かすことはできません。一国の皇帝ともなれば、多くの女性をはべらせることも珍しくない中、シャー・ジャハーンがムムターズ・マハルに注いだ愛情は、類を見ないものでした。では、この愛情ぶかき夫婦についてご紹介しましょう。

3-1. 「壮麗王」シャー・ジャハーン

シャー・ジャハーンは、1592年にムガル帝国第4代皇帝ジャハーン・ギールの三男として誕生しました。即位前の名はフッラムといいますが、ここではシャー・ジャハーンとしますね。

ムガル帝国では、親子や兄弟間での血みどろの争いが珍しくないのですが、シャー・ジャハーンもその例に漏れませんでした。父に対して反乱を起こし、血族との争いを経て、ようやく即位となったのです。「シャー・ジャハーン」という号は、「世界の皇帝」という意味を持つ実に壮大なものでした。また、即位式の豪華さから、ヨーロッパからも「壮麗王」と呼ばれたそうです。すでにこの頃から、インド・イスラーム文化の保護者となる素地が培われていたのですね。

3-2. ムガル帝国の全盛を築いた王

シャー・ジャハーンの時代にはデカン方面に版図を拡大し、ムガル帝国は全盛期を迎えました。これに伴って農業生産も拡大し、国庫は大いに潤ったのです。

このため、シャー・ジャハーンは帝国の権威を誇示するため、壮麗な建築や美術に資金をつぎこみました。「孔雀の玉座」と呼ばれる黄金と宝石に彩られた豪奢な玉座などは、彼の権威を内外に示し、彼のもくろみ通りに事が進んでいったのです。そして、インド・イスラーム文化と呼ばれる優美で華麗な文化が花開くこととなったのでした。

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