中国の歴史

中国を象徴する世界遺産「万里の長城」の歴史とは?わかりやすく解説

漢の武帝による修復と延長

始皇帝が生きている間はおとなしかった匈奴ですが、始皇帝死後の混乱期に体勢を立て直し、始皇帝に奪われた土地も奪還しました。漢を建国した高祖劉邦は匈奴の王冒頓単于と戦って敗れ貢物を献上することを約束します。こうした関係が一変するのは武帝の時代です。

武帝は始皇帝と同じように大軍団を編成。たびたび匈奴と戦いました。武帝による攻撃は大規模でかつ繰り返し行われたため匈奴は衰退していきます。武帝は匈奴から奪った土地を守る形で長城を延長しました。

また、シルクロード貿易で重要な西域諸国へのルートを守るため、これらの地域にも新たな長城を建設。西は甘粛省の西に端にある玉門関から、東は朝鮮半島北部に至るまでの長大な長城が完成します。この長城は歴代で最も長いものでした。

万里の長城のその後

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戦国諸国が作り始め、始皇帝が連結させた万里の長城は前漢の武帝によって延長されました。その長大な国境線は常に維持できたわけではありません。中国王朝の国力や遊牧民の勢力などによって長城の場所は変化し、中国王朝の力が著しく低下した時は維持することができず放棄されることもありました。武帝以後の万里の長城についてまとめます。

長城の修築と放棄

武帝の死後およそ100年後に建国された後漢は長城の維持に熱心ではありませんでした。後漢の半ばころになると長城はほとんど放棄されてしまいます。続く三国時代や五胡十六国時代には遊牧民の力が強大化。特に五胡十六国時代は遊牧民が長城よりも南に深く入り込んだ時代です。

長城が復活するのは南北朝時代。華北を支配した北魏が長城を復活させました。南北朝時代の長城は秦・漢の長城よりも南側に位置しています。遊牧民に押されている様子がよくわかりますね。南北朝時代の長城は次の隋に引き継がれます

隋を滅ぼした唐は積極的に領土を拡大。長城をはるかに超えた領土を獲得しました。そのため、唐の時代になると長城は再び放棄されます。長城を復活させたのは金でした。

金は中国の北半分を支配した王朝。モンゴルからの遊牧民の侵入を防ぐため、界壕とよばれる長城をつくります。この界壕を越えて中国を支配したのがモンゴル人の元でした。元は中国とモンゴルの往来を妨げる長城に関心はありません。こうして、再び長城は放棄されました

明の長城

現代に残る、あの万里の長城はいつ築かれたのでしょうか。現在の万里の長城をつくったのは明王朝です。明は元をモンゴル高原に追い出し中国を統一。永楽帝の時代にはたびたびモンゴルに対して遠征をおこないました。

長城を修築し始めたのはこの永楽帝の時代です。長城がより堅固になっていくのは1449年の土木の変のあとのこと。土木の変とは明の皇帝が遊牧民のオイラトと戦って敗れ捕虜となった事件。明代の長城は遊牧民の侵入を本格的に防ごうとすぐに越えられない堅固なつくりでした。

西は甘粛省西部の嘉峪関。東は河北省の山海関まで総延長4000キロにのぼる長大な長城が築かれました。建築にかけた年月はおよそ100年。明が北方遊牧民をどれだけ脅威と考えていたかがわかりますね。長城付近には防衛の軍も置かれ、北からの侵攻に備えました。

最重要拠点山海関

明が山海関に配置した兵はおよそ8万人。軍馬は1万2千頭に及びます。山海関を破られるとたちまち首都の北京が危機にさらされることから明は最重要防衛拠点と位置づけ防備に余念がありませんでした。明末に中国東北地方、当時の名称で言う満州を統一した後金(のちの清)の王、ヌルハチやホンタイジも山海関を落とすことはできません。

明末に山海関を守備した将軍は呉三桂。清の大軍と向き合って一歩も引かぬ覚悟で山海関を守備していました。1644年、明の国内で李自成が反乱を起こします。李自成軍は明を正規軍を打ち破り首都北京を占領。最後の皇帝の崇禎帝が自殺します。

帰る場所を失った呉三桂は清軍に投降。外の敵に対して難攻不落を誇った山海関が陥落した瞬間でした。山海関を突破した清軍は呉三桂を道案内にして北京へと急行。李自成軍を打ち破り北京を占拠します。その後、清軍は中国全土を支配しました。

万里の長城は中国王朝の強さと遊牧民への警戒心を今に伝えている

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清代に放棄された万里の長城。現在は世界遺産に登録され世界中から観光客が押し寄せています。私たちがテレビなどで見ることができるのは北京周辺の修築された長城です。尾根戦を伝うように築かれた長城は中国王朝の強さを伝えるとともに、北方遊牧民に対する中国王朝の警戒心の高さも表しています。

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