三国時代・三国志中国の歴史

項羽と劉邦、二人の英雄の物語「四面楚歌」由来をわかりやすく解説

広武山のにらみ合い

広武山に劉邦が立てこもったのは、広武山がとても守りやすい地形だったからです。二つの山とそれを隔てる谷。どちらか一方の山に陣取ってももう一つは攻め落としにくい地形でした。劉邦はこの山の一方に立てこもります。劉邦に追いついた項羽はもう一つの山を占拠、にらみ合いが始まりました。

劉邦は幾度もの敗戦から、戦いでの項羽の強さを嫌というほど知っています。全軍に項羽の挑発に乗らず、相手の食料が尽きるまで待つように命じました。食料が減って困窮する項羽軍。

項羽は劉邦に一騎打ちを提案しますが、劉邦は知恵で戦おうといって応じようとしません。その時、項羽は部下に威力のある弓を使わせ劉邦を狙撃させます。矢は急所こそ外しますが劉邦に命中。しかし、劉邦はかすり傷だといって笑い飛ばします。実際は結構な大けがだったようですが、士気の低下を防ぐためのパフォーマンスをしてみせたのでしょう。

いよいよ食料が残り少なくなった項羽はやむなく劉邦との和睦を受け入れます。この時、人質としていた劉邦の家族も返されました。

~垓下の戦い~楚漢の最終決戦

和睦に従い、楚・漢両軍は広武山から引き上げます。この時、劉邦の参謀たちは言いました。「食料がなく弱り切っている今こそ、項羽を倒す絶好のチャンス。人質も返された今こそ決戦の時」と劉邦に和睦の破棄と項羽攻撃を提案します。

一度目の攻撃は項羽軍の圧倒的強さのために失敗。逃げ帰った劉邦は韓信らの援軍を得て再び項羽と戦います。何度かの戦闘の後、数に勝る劉邦軍は項羽軍を垓下に追い詰めました。しかし、追い詰められても項羽は強い。韓信率いる劉邦軍の攻撃を何度も撃退し、戦いの決着は容易につかなかったのです。

兵士が減り、食べ物を底を尽きた状態であるにもかかわらず鬼神のごとき強さを発揮する項羽と彼に従う楚の精鋭部隊。彼らの心をくじくための秘策を軍師の張良が提案しました。

四面楚歌~項羽軍の最後~

ここから先は日本の国語の教科書や辞典にも掲載されている名場面。周囲を劉邦の漢軍に包囲された項羽軍。翌日の戦闘に備えてテントで休んでいると何やら聞き覚えのある歌が周囲から聞こえてきました。耳を澄ましてみると故郷である楚の歌ではないか。項羽は大いに驚いて「漢は既に楚を占領したのか。包囲軍になんと楚の人が多いのだろうか」。これが張良が仕掛けた心理戦でした。張良は部下に楚の歌を習わせて準備を進めたのです。

戦いの運命を悟った項羽は最後の酒宴を開きました。愛する虞美人とともに酒を酌み交わしながら悲憤慷慨して辞世となる数行の詩を読みます。「山を引き抜くだけの力を持ち、名馬にまたがって戦ったが時世の変化に勝てず馬も先に進まない。この状態でどうしたらよいだろう。虞美人よ、お前をどうしたらよいだろう」。その歌に虞美人も唱和しました。

宴が終わり彼女と決別すると800の兵を従え、南に向かって脱出します。これを猛追する漢の大軍。最後は長江のほとりに追い詰められ激闘の中で戦死しました。

現代に生きる四面楚歌の教訓

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圧倒的に優位だったはずの項羽。戦いに勝利し力を増すにしたがって人々が離れていきました。死ぬ間際まで「天が俺を滅ぼすのであって、俺に力がなかったわけではない」といっていました。一方の劉邦は自分の力の限界をわきまえて周囲の力を借りることで天下を取り漢の初代皇帝、高祖となりました。四面楚歌の状況にならないためには人々の意見を聞きかたわらにいる人たちを大切にするべきなのでしょう。

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