中世ヨーロッパの大事件「カノッサの屈辱」をわかりやすく解説!
カノッサの屈辱~教皇の勝利~
1075年、かねてから聖職売買の原因は世俗権力が高位聖職者の叙任権を握っているからだと考えたグレゴリウス7世は皇帝ハインリヒ4世に対して「今後は、高位聖職者を勝手に任命するな!叙任権は教皇にあるのだ!」と通告。23歳の若き皇帝は教皇との対決を決意しました。
ここで教皇グレゴリウス7世は必殺技を繰り出します。それが「破門」です。破門されると、キリスト教徒としての立場が剥奪され、一切の権利を認めらません。特に、帝国内の貴族たちはハインリヒ4世に対して忠誠を尽くす義務がなくなり、好きなだけ逆らえるようになります。これはハインリヒにとって打撃でした。
皇帝は状況を打開するため雪のアルプスを越えて教皇が滞在していたイタリアのカノッサ城へと向かいました。しかし、教皇は彼に会おうともしません。三日三晩、ハインリヒ4世は修道衣姿で城門の前に立ち尽くしたといいます。「ここらでいいだろう」と思った教皇は、ようやくハインリヒ4世の謝罪を受け入れ破門を解きました。
皇帝ハインリヒの逆襲
三日三晩立ち尽くした皇帝はいったいどんな思いだったのでしょう。若き皇帝は教皇に対する復讐を決意します。ドイツに帰った皇帝は反対派と対決。数は多いものの足並みが乱れた反皇帝軍は皇帝ハインリヒ4世の軍によって撃破されました。
ドイツ国内を固めたハインリヒは憎き教皇グレゴリウス7世の廃位を宣言。1081年、ローマに向けて軍を差し向けます。皇帝の大軍に逆らうすべがなかった教皇はローマを脱出。ハインリヒ4世は新しい教皇を即位させ、改めて神聖ローマ皇帝として即位しました。
教皇は南イタリアを制圧していたノルマン人たちに助けを求めます。それに応じたノルマン軍はローマへと進軍。その隙をついて教皇グレゴリウス7世はイタリア南部のサレルノへと脱出することができました。教皇グレゴリウス7世はサレルノで死を迎えるのです。
歴史の評価は後世に確定する
カノッサの屈辱は、表面的には皇帝の反撃によって教皇がローマから脱出する結末となりましたが、歴史的な評価では教皇の優位性が認められたとされます。それはこの事件が教皇の破門の威力を世間に知らせ、聖職叙任権が教皇のものであることを再認識させたからです。歴史の出来事は当時の評価と後世の評価が大きく違うことがあります。カノッサの屈辱はその良い例ではないでしょうか。