日本の歴史明治江戸時代

5分でわかる「俳句」有名な俳人と名句をわかりやすく解説

親しみのある句を数多く詠んだ「小林一茶」

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松尾芭蕉、与謝蕪村とともに、三大俳人と呼ばれたのが小林一茶です。

生まれは1763年、信濃国(現在の長野県)出身。裕福な農家の長男としてこの世に生を受けました。

15歳の頃に江戸へ奉公に出ますが、しばらくはどこで何をしていたのか、詳しいことはわかっていません。しばらく音信不通になった後の25歳のときに、俳人としてその名が知られるようになります。

当時、江戸で活躍していた葛飾派という俳句一門に入門し、才能を開花させた小林一茶。芭蕉や蕪村と同じように、俳句修行の旅に出ることも多かったようです。

小林一茶の作風は「一茶調」とも呼ばれ、庶民的で親しみやすいテーマのものが多い。生活の中の何気ない事柄を取り上げ、生涯で詠んだ句は20,000点にもなります。

俳句の世界では、遅咲きながら精力的に活動していましたが、私生活はあまり満たされていませんでした。

実家の母(父親の後添え、継母)との折り合いが悪く、父が亡くなった後も財産分与でさらなる確執。50歳になってから結婚し子供を授かりますが、子供を早くに亡くし、妻もこの世を去ってしまいます。

1828年、65歳で死去。小林一茶は波乱万丈の人生を送りながら、穏やかで温かみある俳句をたくさん世に送り出しました。

【小林一茶の代表作】

すずめの子そこのけそこのけお馬が通る(すずめのこ そこのけそこのけ おうまがとおる)
名月をとってくれろと泣く子かな(めいげつを とってくれろと なくこかな)
めでたさも中位なりおらが春(めでたさも ちゅうくらいなり おらがはる)
やせ蛙負けるな一茶これにあり(やせがえる まけるないっさ これにあり)
春風や牛に引かれて善光寺(はるかぜや うしにひかれて ぜんこうじ)

日本の近代文学に影響を及ぼした「正岡子規」

正岡子規は明治初期、1867年に伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市)で生まれます。

父は松山藩士・正岡常尚。その父が、子規が5歳の時に亡くなり、母の実家の援助を受けながら生活していたのだそうです。

子供のころから文才があり、政治にも興味があったとのことで、16歳のときに地元の学校を中退して単身東京へ。知人の勧めで東大予備門に入学し、その後、帝国大学(現在の東京大学)に入学します。

東大予備門時代は、夏目漱石や生物学者として知られる南方熊楠(みなかたくまぐす)と同窓でした。

帝大時代はアメリカから渡ってきた野球に夢中になりますが、しばしば体調を崩すことも。結核を患っていたのです。

を中退して新聞記者となった正岡子規は、俳句の革新運動などにも関わっていきます。

そして1897年、俳句雑誌「ホトトギス」を創刊。その頃まだ無名だった与謝蕪村を世に広めたのは正岡子規だったといわれています。

病にむしばまれながら、俳句を世に普及させ、精力的に活動を続けた正岡子規。1902年、34歳という若さでこの世を去ります。

【正岡子規の代表作】

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺(かきくえば かねがなるなり ほうりゅうじ)
春や昔十五万石の城下かな(はるやむかし じゅうごまんごくの じょうかかな)
風呂敷をほどけば柿のころげけり(ふろしきを ほどけばかきの ころげけり)
いくたびも雪の深さを尋ねけり(いくたびも ゆきのふかさを たずねけり)
鶏頭の十四五本もありぬべし(けいとうの じゅうしごほんも ありぬべし)

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