中国の歴史

日本の文化にも影響を与えた?中国の「道教」をわかりやすく解説!

初期の歴史

道教が一体いつの時代から教団としての活動を行い始めたのかはあまりわかってはいませんが、初期の道教の教団の制度は2世紀頃の太平道に始まると一般的には言われています。太平道とは後漢時代の中ごろに于吉という人物が得た神書『太平清領書』を入手した張角が立ち上げた宗教集団です。

しかし、太平道は一応は道教団体としていますが、実際の活動は張角がお札をつけた水である「符水」を飲んで病を癒すようないわゆるオカルトチックな宗教で、現在では見向きもされないような宗教でしたが、時代は混乱の最中にあった後漢の末期であり、そんな不安定な時代に多くの信者を集めていき、いつしか巨大な宗教団体に成長していくことになります。

これを危ないと判断した後漢から弾圧を受けてこれに対して太平道の教徒たちは184年ついに蜂起。これが三国時代の始まりとされている黄巾の乱です。しかし、この黄巾の乱によって太平道は壊滅状態に追い込まれてしまい、やがて自然消滅しました。黄巾の乱が起こった時から少し遅れて中国の内陸部の蜀で張陵が五斗米道をおこします。

この五斗米道は太平道の反省を含めて凶暴な組織ではなくなりましたが、やっぱりこの宗教もオカルトチックな物であり、太平道と似通った性質を持っていました。しかし、反省を含めて政府との折り合いをつけたことで勢力を順調に拡大。3代目張魯の頃には蜀だけではなく、中国全般に広まっていき、信者などは大体50万人ぐらいになっていくことになりました。

南北朝の時代の始まり

五斗米道を含めた道教の教団は三国時代を統一した晋に保護される存在となっていきましたが、後に八王の乱などで晋が滅亡するとその後の戦乱を避けて江南に移るようになります。

その一方でその場を離れなかった教団もあり、五斗米道を改めて天師道と呼ばれるようになった教団は南北に分かれるようになりました。

南北朝時代の北朝では道教はこの時代に最盛期を迎えていた仏教と互いに争うことになり劣勢に。そこで教義を大きく整えなければ勝てないと判断した教団は南朝で発展した「三洞四輔」をさらに深めていき、北周の武帝の時代には道教の最初の教理書『無上秘書』が完成しました。

道教の全盛期

南北朝のごたごたが起こった中国でしたが隋によって南北朝を統一します。そののちに中国を支配したの唐は中華王朝では珍しく道教の王朝でもありました。唐は最盛期の李世民の時代から信仰されており、則天武后の時代に一時期仏教の時代に戻るのですが、結局道教中心に戻ります。

唐代の道教重視は科挙に強く反映されており高宗の時代には老子の教えの本である『老子道徳経』が項目に加えられ、玄宗には元々あった科目に加えてさらに『荘子』も入ることになりました。要するに政治の中心に道教のエキスパートを入れたかったことが分かりますね。

さらに玄宗は道教の注釈書を作って道教の学校を設置。道教の試験に合格したものは科挙の合格者と同格とされたのを見ると流石に贔屓をしすぎかと思うのですが、これが唐の道教重視が分かります。

また、唐の時代は道教がさらに教義を深めていったそんな時代でした。唐の時代でも道教は仏教と争っており、仏教などはインドから伝わる経典の間に整合性を持たせる必要から系統的な解釈を重ねていき、中国独自の考えを発展させていき、中国での支持を得ていくようになりましたが、道教はそれと同時期に仏教の要素を含めながら同じく教義をまとめていくようになります。

とくに唐の時代の道教を代表する経典『太上一乗海空智蔵経』などには仏教の『涅槃経』の仏性の概念が取り入れられるなど思弁性を高めているものもあり、それぞれの協議を深めていることがわかりますね。

ちなみに、この時代には道教の神仙思想の一つである金丹がはやることになりました。金丹は要するに不老不死になるための薬で金を原材料にした薬でしたが、この金丹を作るために唐の皇帝たちは莫大な資金を使って作り上げようとしたのです。

しかしその結果、金などの金属を入れたことによって金属の中毒死を招くことになってしまい、次々と皇帝が亡くなる事態に。

結局は成果を挙げられない金丹は唐代を最後に廃れ始めていくことになりました。

唐以降の道教

唐が滅亡して宋の時代になると江南地方では道教の宗派が形成されていくようになります。

その中でも「経籙三山」と呼ばれる龍虎山、閣皁山、茅山の3つが権威を誇ってそれぞれ正当性を主張していくようになりました。

しかしやがて龍虎山が隆盛を誇っていき道教の総本山となっていくようになります。一方で華北の地域には異民族の遼や金の領地となり不安定な政治状態に陥いることになりました。

その中でも新しい道教の宗派が信仰されていくようになり、太一教・真大道教・全真教の3派がいわゆる華北地域での道教の中心となっていきます。このうち太一教と真大道教はやがて混乱の最中で衰退していくことになるのですが、残った真教はチンギス・カンと会見するなど元王朝の後見を受けるようになり、その勢力を伸ばしていくようになりました。

この龍虎山と全真教はやがて南北における道教の二大宗派となっていき、明の初期に入ると龍虎山から名前を改めた正一教と全真教が道教の正式な宗派として定められることになります

ちなみに、この二つの宗派は似ているところもあれば違うところもあり、例えば教徒である道士に関しては戒律をきちんと守らなければなれないような厳しさを持つ全真に対して正一は符籙を与えられればなれる制度で妻帯も許されていました。日本の仏教で表すと全真教は曹洞宗で正一教が浄土真宗みたいにものでしょうか。

この二つの宗派は後々派閥が生まれてはいくものの、今でもこの二つが二大宗派となっています。

現在の道教

時代は大きく流れて20世紀に入ると道教の考えが2つの形態に分かれることになります。正一教の小規模な制度を構えて住持がおり弟子から後継者を選ぶ形式をとる一方で全真教は各地の道士を集め修行を積む場となっていきました。

そして、中華人民共和国となっていた1957年には道教をまとめる全国的な組織である中国道教協会が設立され、社会主義の中で政府の方針に従いながら協議を守ろうとしていました。しかし文化大革命の時期には仏教や儒教と同じく攻撃の対象となっていき、道士は無理矢理還俗していき道教の施設が次々と破壊されていくようになりました。

その後毛沢東がなくなると文化大革命は収束。1980年代になるとある程度の信教の自由が認められていくようになり、道教は次第に認められていき道教は復興を果たすことになります。今では中華人民共和国の枠組みの中で中国の一宗教として活動しているのです。

日本における道教

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日本では道教はあまり知られていませんが、道教の影響を受けた文化が数多く存在しているのです。次は日本における道教の文化について見ていきたいと思います。

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