古代エジプトの最盛期となったエジプト新王国
古代エジプトがもっとも繁栄したのは新王国時代。新王国時代は紀元前1552年から紀元前1070年ほどのおよそ500年間です。
紀元前1542年、ヒクソスから軍事技術を学んだエジプト新王国はナイル川の河口地域のヒクソス人政権を滅ぼしエジプトの再統一に成功しました。エジプトのナポレオンとも呼ばれるトトメス3世は周辺諸国との戦争に勝利し、エジプト新王国の領土を拡大します。
新王国時代の中ころになると、アメン神の神官団が勢力を拡大。王位継承にまで口出しするようになりました。そこで、アメンホテプ4世は都をテーベからテル=エル=アマルナに移し新たな神であるアトン神信仰を採用。宗教改革であるアマルナ革命を行いました。
しかし、アマルナ革命はイクナートン(アメンホテプ4世が改名)一代で終わり、次のツタンカーメン王の時代には都がテーベに戻ります。
紀元前1290年から紀元前1224年頃まで在位したラムセス(ラメセス)2世は、ヒッタイトと戦ったカデシュの戦いで有名です。カデシュの戦い後、ラムセス2世はヒッタイトと世界史上初の平和条約を結びました。
東地中海の三民族
エジプトとメソポタミアの中間地点にあたる東地中海地域、現在はイスラエル、レバノン、シリアなどの国がある地域には三つの民族が居住していました。
一つ目の民族は、現在のシリア方面にいたアラム人です。アラム人は中心都市であるダマスクスを拠点に貿易を行うことで繁栄しました。
アラム人商人たちはメソポタミアから東の地域で活躍します。そのため、アラム文字は西アジアからアラビア、インド方面で広く使われ、現在のアラビア文字、ヘブライ文字、ヒンドゥー文字、チベット文字などに影響を与えました。
二つ目の民族はフェニキア人。シドンやティルスを根拠地として、東地中海全域で活動する海の商業民族となりました。フェニキア人はライバルであるギリシア人と競いながら地中海各地に植民都市を建設します。
三つ目の民族はヘブライ人。現代の私たちにとってはユダヤ人といったほうが聞きなじみがあるかもしれません。一神教であるユダヤ教を強く進歩する彼らは、イェルサレム(エルサレム)都とし、ヘブライ王国を建国。ダヴィデ王やソロモン王の時代に繁栄します。
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古代オリエントの統一
紀元前8世紀、アッシリアがエジプトとメソポタミアを含む全オリエントを初めて統一しました。アッシリア滅亡後、再びオリエントは分立時代に戻りましたが、紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシアによってふたたび統一されます。以後、200年以上にわたり、オリエントはアケメネス朝ペルシアによって統治されました。
アッシリアによるオリエント統一
アッシリア人はメソポタミア北部のアッシュールで都市国家を作っていました。紀元前1500年頃は、強国ミタンニに服属することで生き延びます。紀元前9世紀ころ、アッシリア人は鉄製の戦車や騎兵を導入することで軍事力を強化。周辺諸国の征服を始めました。
紀元前8世紀、サルゴン2世やセンナケリブ王の時代にアッシリアは勢力を急拡大。シリアやフェニキア、バビロンなどを次々と併合。ヘブライ人の王国であるイスラエルを紀元前722年に統一することでメソポタミアを手中に収めました。紀元前663年にエジプトを占領すること初のオリエント統一を成し遂げます。都のニネヴェは大いに繁栄しました。
しかし、アッシリアによるオリエント支配は長く続きませんでした。戦って敗北した民族は都市を破壊され、強制移住を強いられるなど厳しい統治を行ったからです。それによりアッシリアは短期間に滅亡してしまいました。
アッシリア滅亡後に訪れた4王国分立時代
アッシリア滅亡後、オリエント世界には4つの王国が成立します。小アジア西部を中心とするリディア王国、メソポタミアを中心とする新バビロニア王国、ペルシアを中心とするメディア、そしてエジプト末期王朝ですね。
サルデスを都としたリディア王国は世界で最初の鋳造貨幣を作ったとして有名な国です。鋳造貨幣が必要となったのは、リディアや周辺地域で交易が盛んだったからでしょう。
カルデア人のつくった新バビロニア王国はネブカドネザル2世の時代に最盛期を迎えます。ネブカドネザル2世はユダ王国を滅ぼし、ユダヤ人たちをバビロンに連行しました。いわゆる、バビロン捕囚ですね。
メディア王国はイラン人の一派がつくった国。メディア王の婿となったファールス地方の有力者であるアケメネス家が、のちにメディアを滅ぼしてアケメネス朝ペルシアを建国しますよ。
アケメネス朝ペルシアによるオリエントの再統一
紀元前550年、ファールス地方の有力者でメディア王の婿となっていたキュロス2世は、メディア王国に対し反乱を起こしました。反乱は瞬く間に拡大し、メディア王国はキュロス2世によって滅ぼされます。キュロス2世に始まる新しい王朝はアケメネス朝とよばれますね。
紀元前525年、アケメネス朝のカンビュセス2世はエジプトの末期王朝を滅ぼしました。これにより、アケメネス朝はオリエント全域を支配。アケメネス朝の支配はアッシリアに比べると寛容で他民族を尊重するものだったことから長続きします。
カンビュセス2世の死後、王位をめぐる争いがおき、最終的にダレイオス1世が王となりました。ダレイオス1世はペルセポリスやスサを拠点として帝国を統治。地方にはサトラップとよばれる州知事や州知事を監視する「王の目・王の耳」という監察官を派遣し、中央集権を維持します。
ダレイオス1世はギリシアにも遠征しましたがうまくいきませんでした。その子のクセルクセス1世もギリシア征服に失敗します。