日本の歴史明治

日本と韓国の摩擦の先に…「韓国併合」をわかりやすく解説

桂タフト協定と海外の反応

日本はポーツマス条約の直後にアメリカのフィリピン支配権を承認する内容の桂・タフト協定を交わすことになります。桂・タフト協定は1902年の日英同盟をふまえたもので日本がアメリカ合衆国の植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明するかわりにアメリカ合衆国は日本の韓国における指導的地位を認めることが取り決められることになりました。
またイギリスも日露戦争の終結時になると「日清戦争後に独立した韓国の状況を見ていると、韓国の政治家に統治能力がないため、ここ 10 年の韓国は名目上の独立国に過ぎず、このまま独立国として維持されるのは困難である」と見解を示すようになり、第二次日英同盟では日本が韓国を保護国にすることが承認され、フランスも1907年の日仏協約で日本の韓国における優越的地位を認めることに。ロシアも日露戦争で日本が朝鮮に対して優越権を持っていることが承認したこともあり、この一連の外交によって列強は韓国に対する見方を単なる日本の保護国ととらえるようになっていたのです。

第二次日露協約

高宗はもはや日本に頼るしかないと韓国の利益を保全するため日韓協約の締結を推進し、1905年11月に第二次日韓協約が締結。この協約によって韓国の王族の権利は日本によって保障されることになったのですが、この協約によって韓国の外交権は日本に接収されることとなり事実上の保護国となりました。保護国となった韓国には日本の出先機関であり韓国の行政府である統監府が設置。元老である伊藤博文が初代統監に就任しました。

これによって朝鮮は日本の保護国に置かれてしまうように。

これに対して不満を持つようになった高宗は、かつて日本が三国干渉の圧力で日本が遼東半島を手放した実例があるとしてもしも欧米列強の支持を受けて列強が日本に対して圧力を加えたら第二次日韓協約を撤回する可能性があるとして日本からの主権奪還を目指していくようになります。

そこで高宗が注目したのが1907年からオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議でした。高宗はこの会議での日本による韓国支配の糾弾にすべてをかけて密使を派遣したのです。

しかし、上にも書いた通り日本は朝鮮の保護国化を国際的に認めてもらうために様々な条約を結んでおり、さらには外交権を失っていた朝鮮が入る隙間もありませんでした。

ヨーロッパからしたら近代化を進めていきヨーロッパと並ぶ国家となりかけていた日本と朝鮮ではもちろん日本に味方するのが当然だという認識が広がっていたのです。そのためこのハーグ密使事件はどこの国にも拒否されることになり、失敗に終わることになったのでした。

そしてこのハーグ密使事件は日本にも知られることになり、日本は高宗の独断行動に大激怒。

高宗の退位を目指していくようになり、なすすべもなく孤立した高宗は退位することに。純宗が即位したのでしたがもうここまで来れば日本の保護国は確定的なものに。

日本は朝鮮との間に第三次日韓協約を締結。この第三次日韓協約では朝鮮の内政権そのものを日本に譲ることがきめられ、さらには軍隊を解散させられました。

運命の日韓併合

第三次日韓協約の結果、日本は完全に朝鮮を傀儡にすることに成功。日本は韓国そのものを併合するために動き出すことになります。

しかし、朝鮮民衆からしたら日本に併合されることはたまったもんじゃありません。韓国軍が解散されたことで朝鮮各地では義兵運動が起こることになりました。

そして、1909年10月26日にハルビン駅にて伊藤博文が安重根に暗殺されると、韓国の併合は決定的なものに。そもそも伊藤博文は日韓併合に反対していたためこれによって日本国内の勢いは日韓併合に傾くことになります。

そして最後の最後まで朝鮮の影響力を持っていたロシアもここまで来ればもはやこれまでとして韓国との関係を断絶。全ての舞台が整った日本は1910年6月3日に併合後の韓国に対する施政方針が閣議決定。韓国の首相である李完用にたいして併合するように命令を出します。

承認を受けたのち1910年8月22日に韓国併合条約は漢城で寺内正毅統監と李完用首相により調印。大日本帝国は正式に韓国を併合したのです。

韓国併合のそれぞれの考え

こうして日本は韓国を併合。1945年の日本の敗戦まで韓国は日本の統治下に置かれていくようになります。

そしてこの韓国併合は日本と韓国との関係の争点となっていき、韓国併合の認識の違いも生まれていくようになりました。

次はそんな韓国と日本の韓国併合の認識について見ていきたいと思います。

韓国の主張

韓国併合に対する韓国側の解釈は、「そもそも不法なものであり、無効なものだった」というものです。

韓国からしたら日韓併合は強制されたものという考えとおなっていり、その考えが今も続いているというのが現状となっています。

韓国では法よりも感情が優先されることがたたあり、国際法で合法なのか違法なのかよりも問題なのは「外国に支配された」という事実であり、しかもその相手が冊封体制下において宗主国と仰いできた中国だったならばまだしも、格下と見なしてきた日本であったことが一番重要なのです。

もちろん韓国国民のなかには韓国併合を肯定的に評価する人もいますが、韓国ではやっぱり日本に対して敵対心や恨みを持っているというのが現実。

2005年には「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」という、親日派の子孫から財産を没収する法律も制定されていき、慰安婦問題や徴用工問題などで摩擦が生まれているのです。

日本側の主張

一方で日本側の主張は韓国併合に関する条約の締結自体は国際法上では有効であり、1965年に締結された日韓基本条約第において無効であることになったというもの。

日本からしたら併合した当時の韓国は国としての体制が整われてはおらず、日本が保護国にするしかなかったという認識があります。

さらに国際法の視点で見ても核国は当時日本の支配を認めているという考えが高くあり、イギリス第二次日英同盟で日本の韓国支配を承認。またアメリカは1905年に桂・タフト協定を締結。ロシアとはポーツマス条約で韓国に対する日本の優越権を認めてフランスもまた1907年の日仏協約によって承認しました。

このように韓国併合は日本からしても合法であり、世界的に見ても合法としか言えないというのが主張となっているのです。

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