改革派と保守の対立
閔妃は朝鮮軍の近代化を推し進めるために近代化を達成した日本から軍事顧問を招待して新式軍隊の編成を試みていました。
しかし、この近代化政策によってこれまでの軍隊を担ってきた人に対する給与が減らされてしまい軍隊は閔妃に対して不満を持ち始めていきます。
これを狙った大院君は1882年に壬午事変と呼ばれるクーデターを起こし、再び大院君が政権を持つようになります。
閔妃は清の協力を経てなんとか政権を取り戻すことはできたのですが、清に頼ったおかげでこれ以上日本と協力できないと考えていき近代化を停滞させていくようになります。
朝鮮の国内では近代化を目指す開化派と事大党の対立が生まれており、開化派の金玉均が甲申政変を起こして政権を握ろうとするなど大混乱。
また、1894年には甲午農民戦争が勃発してしまい、朝鮮は清と日本が互いに宣戦布告。いわゆる日清戦争が起こり、朝鮮は戦場と化してしまいます。この日清戦争は日本の勝利に終わり、下関条約によって朝鮮は独立することになったのでした。
ロシアへの依存と日本との関係
下関条約によって朝鮮は独立国となったのですが、その後朝鮮をめぐって日本とロシアがにらみ合う状況となっていきました。
朝鮮は日本ではなくロシアとの協力体制を築いていくことになります。閔妃はロシアに近づいてなるべくロシアの力を借りて朝鮮を近代化して行こうとしていましたが、これが日本の耳に入ると閔妃は暗殺されることになります。
閔妃が暗殺されたことを知った高宗は1896年にロシア領事館に避難。
一国のトップがロシアの領事館に逃げたことは国を捨てたのと同じであり、ロシアの介入はここから一気に加速していくことになります。
しかし、朝鮮は独立国ということは変わらず主張しており、1897年に朝鮮は大韓帝国と国号を改称して元号を光武としました。
李氏朝鮮の保護国化
ロシアと日本の狭間で独立を何度か保っていた韓国でしたが、1904年に日露戦争が勃発し日本が勝利すると韓国は日本の保護国の道を歩んでいくことになりました。
1905年には第二次日韓協約が締結。日本は朝鮮の外交権を接収して内政に関しても日本人の顧問を登用するなど日本が韓国に対して強い強い影響力を持つようになり、伊藤博文が朝鮮に対して韓国統監府を設立しました。
韓国の高宗はこの韓国の保護国化に対して国際社会で抗議するために1907年オランダのハーグに密使を送るのですが、日本が韓国の保護国化を承認していた国際社会によって無視されることになります。
こうして日本は韓国に対する支配を強めていくことになります。
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李氏朝鮮の滅亡
ハーグ密使事件の動きを知った伊藤博文は高宗に譲位するよう迫って代わって純宗が即位。韓国はついに日本の保護国化を決定づけることになったのでした。
そして1909年に伊藤博文がハルビンにて安重根によって暗殺されると、保護国化ではなく日本に併合するべきという主張が通っていくようになってしまい、1910年8月22日に韓国併合ニ関スル条約が締結。ここに500年続いた李氏朝鮮は日本の一部となり、消滅することになったのです。
李氏朝鮮は朝鮮の性格を決めた
李氏朝鮮は朝鮮の中でも一番長い期間統治していた国でした。朝鮮は明や清に服属しながらも朝鮮の文化を決定づけていき、朝鮮で生まれた文化が今の韓国の文化にもなっているのです。