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500年続いた朝鮮の国「李氏朝鮮」をわかりやすく解説!

混乱する朝鮮

その後も一定した安定が築かれていましたが、6代国王世祖が亡くなると国内の政治体制は不安定なものとなっていきます。

国王がなくなると勲旧派と士林派で対立。勲旧派は昔から国王を支えていた家臣の派閥であり、この当時勢力を持ち始めていた朱子学の官僚と仲が悪い状態にありました。そして1498年に世祖を批判したことによって多くの士林派の官僚が弾圧される戊午士禍が発生。

1504年には士林派と勲旧派を併せて約50人が弾圧される甲子士禍が起こり、その後も1519年に己卯士禍、1545年に乙巳士禍が巻き起こることになりました。

ちなみにこの一連の官僚弾圧は戊午士禍、甲子士禍、己卯士禍、乙巳士禍をまとめて「四大士禍」と呼ぶこともあります。

また権力をようやく持ち始めた1567年からも士林勢力の中で争いがおこることになり、士林派は1575年に西人と東人と呼ばれる2つの勢力に分裂。この分裂の事を朋党政治と呼びます。

この一連の争いによって朝鮮国内は大きく混乱。さらには士林派が勝利したことによって仏教が排斥されていき、儒教による国内体制の安定化が図られていくようになるのです。

日本の朝鮮出兵

李氏朝鮮内で政治的混乱が起こっている最中、日本では明の侵攻を目指してその前段階として豊臣秀吉は朝鮮に対して日本に服属するようにする命令を出していくようになります。

朝鮮では日本に服属するのかどうかで大混乱。

しかも朝鮮内では日本が侵攻することはないとして防衛準備を行わず、民衆に対しても防衛の準備をおこないように命令するようになりました。

しかし、豊臣秀吉は本気であり、1592年に文禄の役として朝鮮に出兵開始。

全く防衛していなかった朝鮮の軍勢はこの前まで戦国時代であった日本軍に全く太刀打ちすることができず、あっという間に首都漢城を攻略し、ちょうせんのほとんどを占領されることになります。朝鮮では政治不信に陥っていることもあり、民衆も豊臣軍に味方した者も相当いたそうです。

しかし、朝鮮のほとんどが支配される時になった時、服属していた明の援軍が到着。日本軍との膠着状態となって行き、日本の小西行長が講話を開始。最終的にはいったん日本軍が撤退することになります。

二度目の朝鮮出兵と朝鮮の混乱

こうして1回目の朝鮮出兵が終結しましたが、この講話の内容は朝鮮に対して受け入れられないようなことばかり。拒否することになります。これが受け入れられないと秀吉が知ると大激怒。再び朝鮮に対して出兵することを決定して1597年1月に慶長の役が行われていくようになりました。

しかし、一回侵攻を受けた朝鮮はもう懲りており流石に防衛も行なっていくように。さらには秀吉が病死がちだということが知られると日本軍の士気が次第に低下。

さらには朝鮮水軍の活躍もあり日本軍の攻撃も徐々に無くなって行き泥沼状態になった戦争は秀吉の死去によって終結。豊臣軍は引き上げて朝鮮出兵は終わりを迎えたのです。

しかし、7年に及ぶ朝鮮出兵は朝鮮に対してかなりの大打撃となってしまい、国土は大きく焦土化してしまうことになります。

清の侵攻

朝鮮出兵ののち朝鮮では跡継ぎ問題が発生。政治は朝鮮戦争の混乱も相まって収拾がつかない状態に突入することになります。結局1608年に光海君が王位につくことになりましたが、国内はぐちゃぐちゃ。光海君が即位したときには朝鮮は国土は大きく荒廃しており、財政も破綻していたも同然でした。政府は破綻した財政の再建のために1603年に成立した江戸幕府と講和。朝鮮通信使を派遣して貿易体制も整えていくことになります。

しかし、この頃には明自体も滅びかけており、派閥争いが激化していた朝鮮は財政を立て直すことはできませんでした。さらには外交関係でも明にべったりくっついていたことが仇となってしまい、1627年北側の後金が明に味方する朝鮮に侵攻を開始。朝鮮はなんとか後金の攻撃を耐え忍んでいくのですがついに限界が訪れ、朝鮮側は後金を兄、朝鮮を弟とする条件と以後一切朝鮮は後金には敵対しないとして講和しました。

しかし国内で後金と敵対する勢力が勢力を伸ばしていくと1636年に清と国号を変更した後金はホンタイジ自ら12万の兵力を率いて再度朝鮮に侵攻。丙子胡乱と呼ばれる戦争に朝鮮は全く歯が立たず、朝鮮は清に対して服属することに。この服属体制は1894年の下関条約締結まで続くことになるのでした。

清服属下の朝鮮

こうして清に服属することになった朝鮮でしたが、その後朝鮮は長年のこだこだを取り戻そうと必死になりました。朝鮮は朱子学を取り入れて自分を明に変わる国家だとする小中華思想が生まれていき、これが朝鮮のベースとなっていきます。

また粛宗は社会の安定に力を入れ、貨幣の流通を行うなど経済政策に着手。あんまりうまくはいきませんでしたがこの時代は安定した時代となりました。

またこの安定していた時代に周辺諸国とに領土問題を解決するために交渉を開始。清との間での領土問題や日本との間に鬱陵島とその周辺の島々をめぐる交渉が行われて江戸幕府は鬱陵島を朝鮮領土として承認することになりました。

ちなみに、現在日韓で問題となっている竹島の帰属問題の交渉のいざこざから来ています。

しかし、そんな中でも朝鮮のイザコザは続いていくことになっていき、朝鮮では両班と呼ばれる貴族たちが権勢を振るって、このときやってきたカトリックを儒教に反していることから弾圧して、さらには貿易をとざす鎖国政策もとっていくようになりました。

朝鮮の開国

時代は降り大院君の時代に入ると大院君は摂政として迫ってきた西洋列強に対して鎖国政策を打ち出していくようになります。

大院君はキリスト教徒を殺害していき、これに起こったフランスが攻めてきたときに撃退。さらにはアメリカの商船が沈没する事件が起こるなど対外関係を一気に悪くする行為を連発していくように。

フランスもアメリカも日本みたいに開国させようとしたのですが、結局失敗に終わり帰国することになりました。

しかし、日本と朝鮮の間で江華島事件が発生すると日本軍は朝鮮に進出。1876年に日朝修好条規を締結して日本との貿易を行っていくことが取り決められることになりました。

実はこのとき朝鮮ではクーデターが発生。大院君は政治の舞台から遠ざけられてしまい、開国派であり改革を目指していた閔妃は大院君の鎖国政策から一転して開国政策に切り替え日朝修好条規を皮切りにアメリカやフランス、ロシアと通商条約を結んでいくことになります。

しかし、これらの条約は朝鮮にとって不平等な内容の条約であり、ここから朝鮮では日本と同じような混乱が起こっていくようになりました。

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