日本の歴史江戸時代

『奥の細道』とは?元禄時代に書かれた松尾芭蕉の紀行文をわかりやすく解説

酒田・新潟・富山・金沢……海沿いの北陸路を行く

『奥の細道』というと松島や平泉など東北を巡ったというイメージが強いですが、距離的にはまだまだ半分にも満たないといったところ。旅はまだまだ続きます。

6月5日~7日、松尾芭蕉は出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)へ。6月10日に鶴岡、6月14日には酒田と、山形の大きな港町を訪れ、少し足を延ばして象潟(きさかた)という名所を訪れています。

一度酒田に戻った松尾芭蕉は、数日滞在した後、日本海沿いの越後路へ。7月4日には中越の出雲崎という土地に到着し、

「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」

という句を詠んでいます。

北陸路には、断崖絶壁の親不知・子不知(おやしらずこしらず)など数々の難所が点在。ここを越えた先にある市振(いちぶり)の関の宿では、ちょっとほっとしたのか

「一家ひとつやに 遊女もねたり 萩と月」

というちょっとロマンチックな句を添えています。

長い旅も終盤。加賀百万石・金沢に到着したときには7月15日になっていました。

永平寺・敦賀を経て大垣に到着~伊勢を目指す

しばらく金沢に滞在していた松尾芭蕉は、7月27日、山中温泉に到着します。

温泉に浸かって旅の疲れを癒した芭蕉。しかしここで、ここまで長旅を共にしてきた曾良が体調を崩してしまいます。

療養のため、旅を止め、芭蕉のもとを離れることとなった曾良は

「行行ゆきゆきて たふれ伏ふすとも 萩の原」(曾良)

という句を置いていったのだそうです。

ここから一人旅。その時の心境を芭蕉は

「今日よりや 書付消さん 笠の露」

という句に込めています。

険しい北陸路を進み、名刹・永平寺を参拝。8月14日に敦賀(福井県南西部)に到着します。

敦賀からは内陸部に入り、琵琶湖の北側をかすめるように進んで大垣へ。『奥の細道』の終着点にたどり着いたのは8月21日のことでした。

到着した松尾芭蕉を、大勢の門弟たちが出迎えてくれたのだそうです。体調を崩し、途中で離ればなれになった曾良も、大垣で芭蕉を出迎えたと伝わっています。

長い旅を終えた松尾芭蕉。旅の最期を

「蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ(ゆくあきぞ)」

という句で締めくくっています。

健脚で好奇心旺盛?松尾芭蕉が紡いだ紀行文『奥の細道』

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紀行文・旅行記として、後世の評価も高い『奥の細道』。こうして見ると、現代でも多くの人々に愛される観光名所を数多く巡っており、日本の美しさを知る良き旅であったことが伺えます。健脚であったことは間違いありませんが、それ以上に、ナビもガイドブックもない時代に、各地の景勝地を巡り、俳句を詠んだ松尾芭蕉。きっと好奇心旺盛な人だったのかもしれない、と感じました。日本の原風景を求めて歩いた2400㎞。考えてみたら、贅沢な旅だったのかもしれません。

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