平安時代日本の歴史

平安時代後期の戦乱「後三年の役」を歴史系ライターがスッキリわかりやすく解説

清衡の得たもの、義家の失ったもの

後三年の役が終わった時、最後の勝者となったのは清衡でした。彼は清原氏の旧領のすべてをそっくりそのまま手に入れ、莫大な経済基盤を得ることになりました。

しかしよくよく考えてみれば、清衡は親の仇討ちを見事に果たしたと言えるかも知れません。彼の父藤原経清が仕えていたのは安部氏ですし、母親は安部頼時の娘です。いわば安部氏滅亡に加担した清原氏を手に入れたわけですね。

清原氏の当主となった瞬間、その忌まわしき清原の姓を捨て、清衡は父の姓である「藤原氏」を名乗りました。そう、清衡こそが奥州の地で栄華を極めることになる奥州藤原氏の祖となったのです。

いっぽうの義家は相当苦労していますね。せっかく奥州の内乱を鎮めたといっても、朝廷からは単なる私戦扱いにされ、期待していたはずの恩賞すら出ません。

それどころか、兵糧の調達のため、朝廷へ納める年貢すら自分達で使ってしまい、「陸奥守として仕事を怠り、兵を集めることばかりに奔走したあげく、朝廷への納税の仕事も怠っていた。」として、不足分の納税を催促されることになりました。すべて完済するまでに10年も掛かったそうです。

そこで自分のために戦ってくれた武士たちのために、私財を投げうって恩賞を渡し、やがて感激した東国武士たちが源氏を支持するきっかけを作りました。畿内出身だった河内源氏が、関東に基盤を築くことになったのでした。この流れはやがて源頼朝へと受け継がれていくことになります。

これには裏話があり、聡明な清衡による暗躍があったそうですね。有力貴族に裏から手を回して「義家はたいした働きはしていない。この戦いはあくまで同族の争いであって、国内の反乱ではない。」と焚きつけました。そのため私戦扱いにされたというのです。

また、清衡は義家に対するフォローも忘れません。義家が陸奥を離れる際、小箱に入ったものを手渡しました。後で義家が箱を空けると、中にはまばゆいばかりの砂金が入っていたとか。義家はこの砂金を元手に部下への恩賞として用いたともされていますね。

こうして清衡は大きな恩を売り、二度と義家が奥州へやって来ないように画策しました。やがて奥州は独立国のように独自の発展を遂げることになるのです。

富を求めて、多くの者が争った奥州

image by PIXTA / 48541158

京の都から見れば、まさに未開の地とも思えた奥州。しかし、そこは肥沃で広大な土地が広がり、海産物もよく獲れ、鉱山資源も豊かな楽園のような場所でした。この富を求めて多くの者が争うのは当然のことだったでしょう。奥州藤原氏の栄華は、こういった争いの果てに花開いたものだったのです。

1 2 3
Share:
明石則実