平安時代日本の歴史

平安時代後期の戦乱「後三年の役」を歴史系ライターがスッキリわかりやすく解説

清衡と家衡の対立

こうして安部の血を受け継ぐ兄弟が勝利し、これで「めでたし」とならないのが後三年の役のややこしいところ。弟の家衡は、義家の決定に不満を覚えます。

 

・兄の清衡のほうが中央に近く、肥沃な土地を与えられたこと。

・清原氏の血が入った自分の方こそが清原宗家を継ぐのにふさわしいこと。

 

こういった理由から、まさに骨肉の争いが繰り広げられることになりました。

1086年秋、家衡軍は突如として清衡の館を急襲。清衡は何とか逃げ延びたものの、妻子はじめ多くの一族郎党が殺害されてしまいました。父親が違うとはいえ、同じ母を持った兄弟同士でこんなにも憎しみ合うとは、土地や権力、カネが絡むとロクなことはありませんよね。

逃げた清衡は義家に助けを求めます。義家側もさっそく呼応し、出羽の吉彦秀武も援軍を出しました。数千騎もの大軍となり、さっそく家衡方の拠点だった沼柵を攻撃。しかし、その名の通り雄物川や沼に挟まれた城は天然の要害も同然。攻防戦は数ヶ月にも及びました。

家衡の頑強な抵抗と冬の寒さによって、ついに戦線が破綻し、大敗した連合軍は撤退を余儀なくされてしまいました。義家は「追討の宣旨」の発給を幾度となく朝廷に願い出ますが、いっこうに色よい返事がありません…

奥州藤原氏のはじまり

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こうして起こってしまった同族同士の争いは、やがて最終局面を迎えます。武家政治を創始した源頼朝へ繋がる義家の活躍と、奥州藤原氏を興すことになる清衡の動きを見ていきましょう。

ついに始まった第二ラウンド「金沢柵攻防戦」

いったんは義家・清衡ら連合軍を退けた家衡でしたが、その意気軒高ぶりは雲を突くばかり。家衡が勝利するや、叔父の武衡も味方につくことになりました。そして武衡は、家衡に金沢柵(かなざわのき)へ移ることを勧めます。

金沢柵は当時、難攻不落の要塞と呼ばれ、現在の秋田県横手市にありました。周囲を断崖絶壁の崖に守られ、数多くの堀を造った堅固な拠点でした。「柵」とはいわゆる城のことで、土塁や堀を造ると同時に、防備のための柵で周囲を取り囲んでいたためです。

翌1087年、態勢を立て直した連合軍は再び攻勢に出ました。しかし前回の戦いの時と同様に、家衡・武衡軍の抵抗に遭って戦況は芳しくありません。

その時、義家の弟義光は京都において宮中に仕えていましたが、兄の苦戦を聞き及ぶや援軍として自分を遣わしてほしいと願い出ます。しかし朝廷から「追討の宣旨」すら出ないわけで、この戦いは完全に義家の私戦扱いでした。もちろん朝廷からOKが出るはずもありません。

致し方なく、義光は官を辞して兄の救援に向かったのです。ちなみに源義光は「新羅三郎」とも呼ばれますが、のちに甲斐源氏を興し、武田信玄らの祖となりました。

源義家が士気を上げるために考えた「剛臆の座」とは?

 

家衡らの激しい抵抗によって苦戦していた連合軍。そんな兵たちの士気を上げるために義家が考案したのが「剛臆の座」というものでした。

勇気があり、戦功を挙げた者は「剛の座」に座らせ、臆病で戦功がないと判断された者は「臆の座」に座らされました。プライドの高い東国武士たちは、なんとか臆の座にだけは座るまいと必死に頑張り、命を惜しまず戦ったそうです。

非情に徹する義家・清衡連合軍

金沢柵を包囲すること数ヶ月。柵はいっこうに落ちる気配がなく、損害も日ごとに増す一方です。このまま力攻めするだけでは戦況を打開できないと見て、吉彦秀武が義家に進言します。

「家衡方は兵たちの他に、数多くの女子供も柵に籠っているとのこと。このまま包囲して兵糧攻めに持ち込みましょう。」

さっそく金沢柵の周囲に付け城が築かれ、長期包囲戦に持ち込む手筈となりました。やがて季節は秋から冬に変わり、柵の中の兵糧が目立って少なくなっていきました。

戦いでいつもひどい目に遭うのは弱い者です。飢餓で苦しむ女子供が助けを請うて柵外へ出て来るや、捕らえた上で見せつけるかのように斬ってしまいました。これで恐れおののいた柵内の者たちは外へ出なくなり、ますます食糧不足に拍車が掛かることになりました。これと全く同じ戦法を、羽柴秀吉も鳥取城攻めで用いていますね。

金沢柵の陥落

その年の11月、難攻不落を誇った金沢柵も長期包囲の中でついに陥落します。兵糧不足のために持ちこたえられないとみた家衡と武衡が逃亡したためでした。武衡にいたっては自分一人が義光を通じて降伏しようとし、あげくに拒否されていますね。

実は清衡は先手を打っていて、家衡たちが逃亡する機先を制して総攻撃を掛けることにしました。事前に「柵の建物は打ち壊し、それで暖を取るように」とも命じました。これも柵の周辺を明るく照らし、逃げても見つけるようにするためです。かつて家衡とともに戦った清衡にとっては、家衡の行動パターンを読んでいたということでしょう。

逃げる準備を始めた家衡は、愛馬に矢を射かけて殺害。敵に名馬を渡すのが惜しかったのでしょうね。金沢柵の跡地にある金沢八幡宮には、この名馬の銅像が建っています。

さて、再起を期すために逃亡を図った家衡軍でしたが、連合軍が放った火のために明々と照らしだされ、次々に討たれていきました。数えきれないほどの兵たちの首が柵内に無造作に掛け並べられ、晒されたそうです。

降伏を拒否された武衡は、周辺の沼地に隠れていたところを見つかり、いっぽうの家衡も行商人に身をやつして逃亡しようとしたところを発見され、二人とも斬首されてしまいました。

ちなみに武衡の娘は越後逃れ、その地の武将だった城(じょう)氏の妻となりました。後年、その子孫たちが鎌倉幕府に歯向かい、再び源氏方と相まみえるのです。

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