父とは違い、内政に尽力する
道三を排除し、名実共に美濃の実権を握った義龍は、父とは異なる路線を選びます。内政に力を入れ、豪族たちの所領問題を改善したり、合議制を導入したりするなど、国内の情勢を安定させることにつとめました。こうしたことから、彼は時の将軍・足利義輝(あしかがよしてる)から認められ、相伴衆(しょうばんしゅう)という役職を得ています。これは、将軍にお供をすることを許されたもので、室町幕府のナンバー2である管領や、階級の高い守護大名にしかなれないものでした。
その一方、織田信長とは対立し、信長と対抗する勢力と手を結びました。また、信長を狙撃しようとしたとも言われています。同時に、勢力拡大のため周辺の戦国武将との戦いも繰り広げました。
あまりにも早すぎる死
しかし、永禄4(1561)年、義龍は35歳の若さで急死してしまいます。何が原因かははっきりしていませんが、奇病を患ったとも伝わっていますね。
義龍の死に伴い、跡を継いだのはまだ14歳の息子・龍興(たつおき)でした。しかし彼はあまりに若すぎ、同時に主君としての器量をまだ備えておらず、織田信長の侵攻を許し、稲葉山城を追われてしまいます。その後、朝倉氏へと亡命した彼ですが、信長との戦いで討死を遂げました。
もう少し長い人生を送らせてあげたかった武将・斎藤義龍
斎藤義龍の生涯は本当に短いものでした。その大半を父との確執に費やした彼の、心理的なプレッシャーは相当なものだったと思います。それでも、父殺しの汚名を甘んじて受けることを選んだ彼は、良き統治者となろうとつとめました。そんな彼が、父を殺してからたった5年で世を去らねばならないとは…運命とは本当に厳しく、残酷なものだと感じます。