弟たちを毒殺し、挙兵する
弘治元(1555)年の冬、義龍は家臣の長井道利(ながいみちとし)と共謀し、孫四郎と喜平次を居城・稲葉山城(いなばやまじょう)に呼び出します。義龍は病気と称し、「自分はもう死を待つのみ。ぜひ弟たちに会って、言葉を交わしたい」と伝えました。
何も知らない孫四郎と喜平次は、兄がもうすぐ死ぬのならば自分たちが家督を継げるだろうという算段で、警戒心なく稲葉山城へとやって来ます。
義龍は彼らを酒宴でもてなし、存分に酒を飲ませて酔わせました。そして、彼らを殺害したのです。
さすがの道三も、この事態に、ひとまず逃亡します。ただ、そこは美濃のマムシ。春になるまで雌伏の時を過ごし、翌弘治2(1556)年春、道三は溺愛する息子たちを殺した義龍に鉄槌を下すべく、挙兵したのでした。
父殺しの汚名を着る決断をした義龍
父・道三との直接対決することになった義龍。道三の国盗りの過程を良く思わない美濃国内の勢力を味方につけることができた彼は、その戦いで父を討ち、勝利を収めます。とはいえ、父を殺した事実に代わりはありませんでした。ただ、そこには義龍の覚悟もあったのです。義龍が父を討った過程を見ていきましょう。
長良川の戦いで父と対決
弘治2(1556)年、長良川(ながらがわ)を挟んで義龍と道三は対峙します。これが「長良川の戦い」と呼ばれる親子の決戦です。
あの道三を前に、義龍は苦戦するかと思われました。しかし、蓋を開けてみれば、義龍側の兵力17,500に対し、道三側はわずか2,700。圧倒的な兵力差がついていたのです。
なぜこんなに差がついてしまったのでしょうか。
それには、道三の下剋上での過程が大きく影響していました。
父を討ち、勝利を収める
道三は美濃から土岐氏を追い出して下剋上を果たしましたが、その裏側では、邪魔な存在をことごとく謀略や暗殺で排除していたというのが暗黙の事実でした。それは、美濃に土着していた豪族たちからすれば、実に不愉快なことだったのです。彼らの中には土岐氏に心を寄せる勢力もまだまだ存在し、彼らは道三に味方することを善しとしませんでした。実際、道三は美濃を支配するに当たり、彼らに対してかなり厳しいやり方をしていたのです。そんな彼らが義龍を支持するのは当然のことでした。
長良川の戦いは、当初、道三が押し気味に展開します。しかし、義龍は自ら川を渡り、味方を鼓舞し、だんだんと押し返し始めたのです。
義龍側の勢いに、道三側は崩されました。かつて無能呼ばわりした息子の見事な指揮ぶりに、道三は自分の眼が曇っていたことを悟りましたが、後悔先に立たず。もうどうすることもできず、彼は討死を遂げたのです。道三のピンチを知った娘婿・織田信長による援軍は間に合いませんでした。
こうして、義龍は勝利と共に父殺しという業を背負うことになったのです。
父を殺す覚悟は十分にあった
首実検の場で、父の首を前にした義龍は、「我が身の不徳から出た罪だ」と嘆き、どんな理由にせよ、親を殺してしまうという大罪を犯した自分を正当化することはありませんでした。そして彼は、父の首を手厚く葬ったといいます。
実は、義龍はすでに父殺しを覚悟していたとも言われているそうです。というのも、彼は長良川の戦いの直前に改名し、「范可(はんか)」と名乗っていました。これは、中国の唐の時代に、やむを得ない理由で父を殺してしまった男の名前だそうです。自分もそれに通ずるところがあるとして、義龍は改名し、父を殺すことを暗に表明していたのでしょう。
短かった父殺害後の人生
父を殺害してようやく美濃支配の実権を握った義龍は、父とは異なり、内政に力を入れるなどして基盤を固めようとしました。しかし、意外なほどあっけなく彼はこの世を去ってしまうのです。いったい何があったのか、その後の美濃斎藤氏の運命を見ていきましょう。