粛軍クーデタ
「ソウルの春」によって、民主化ムードが高まる中、国内情勢に危機感を持ったのが全斗煥や盧泰愚を中心とする軍人たちでした。全斗煥は陸軍少将で保安司令官、盧泰愚は陸軍少将で第9師団長です。全斗煥や盧泰愚は「ハナ会(一心会)」を秘密に組織します。
1979年12月、全斗煥や盧泰愚は麾下の部隊を動員し、首都ソウルの主要部分を制圧。軍内部での主導権を確保しました。全斗煥らによるこの動きを粛軍クーデタといいます。
全斗煥らは崔圭夏大統領にクーデタを追認するように迫りました。最初、大統領は抵抗しましたが圧力には抵抗しきれず、最終的に追認します。粛軍クーデタで軍の実権を握った全斗煥と盧泰愚は、政権掌握に向けて着実に足元を固めました。
韓国軍と光州市民の衝突
1980年5月、ソウルで起きた粛軍クーデタに反発した人々は、全国で反軍部・民主化要求のデモを繰り広げます。全斗煥は韓国全土に戒厳令を布告。政権をとる可能性がある野党指導者(金泳三・金大中)や粛軍クーデタで弱体化した旧軍部の力を背景とする金鍾泌を逮捕しました。
中でも、金大中の逮捕は光州市の市民や学生の反発を招きます。全羅南道出身の政治家である金大中は、光州市民から強く支持されていたからでした。
1980年5月18日、光州市で大学を封鎖していた韓国軍と学生・市民の衝突が始まります。衝突は次第にエスカレート。市民たちは市内各所にバリケードをつくって軍に対抗します。軍が銃撃を始めると、市民たちは郷土予備軍の武器庫から武器を持ち出しました。
全斗煥によって投入された空挺部隊などの韓国軍兵士と学生・市民による銃撃戦は激しさを増し、韓国軍は一度光州市内から撤退。光州市を完全に封鎖してから、再度攻撃します。韓国軍は25,000もの兵力を動員して、ようやく市民軍を制圧しました。この事件が光州事件です。
光州事件後の韓国
光州事件の鎮圧により、全斗煥の軍事政権は足元を固めることができました。全斗煥は強力な情報統制を行い、光州事件の真相が他の韓国市民に伝わらないようにします。しかし、光州市民の口によって光州事件は語り継がれました。全斗煥の政権は1987年まで続きます。しかし、ソウルや光州で起きた民衆デモがきっかけとなって全斗煥政権は崩壊。文民政権成立後、全斗煥や盧泰愚は裁判で責任を問われました。光州事件により弾圧されていた金大中は復権し、大統領に就任します。
全斗煥による軍事独裁と、全斗煥政権の崩壊
光州事件を鎮圧した全斗煥は1981年に大統領に就任します。1983年、ミャンマー来訪中に全斗煥を標的としたテロが発生。全斗煥自身は無事でしたが、多数の閣僚がテロによって殺害されました。
軍の力を背景に政治を行う全斗煥は、民衆による政治批判を一切認めません。メディアも全斗煥批判をすることはできませんでした。
1987年、ソウル大学の学生だった朴鍾哲が治安当局に拘束され、取り調べ中に死亡するという事件がおきます。遺体を調べると、水責めの拷問により死去したことが判明しました。この事件をきっかけに、全国で100万人規模の民主化運動が発生します。
ソウルオリンピックを翌年に控えた全斗煥は、オリンピックの成功と引き換えに大統領直接選挙制の導入と金大中ら反体制活動家の釈放・復権を約束しました。
文民政権の成立と全斗煥、盧泰愚に対する裁判
憲法改正により行われた韓国大統領選挙で、盧泰愚が当選し大統領となります。全斗煥は野党が多数を占める議会で光州事件などの責任を追及されました。全斗煥は国民に謝罪し江原道の寺院で引退生活に入ります。
盧泰愚は大統領就任後、金泳三や金鍾泌を与党に取り込み、政治の安定化をはかりました。盧泰愚時代、中国との国交回復や北朝鮮との国連同時加盟などを実現します。
大統領退任後、盧泰愚は政治資金を隠匿していたことが発覚。裁判の結果、有罪が確定し、懲役15年と2628億ウォンの追徴金支払いが言い渡されました。
盧泰愚の後に大統領になった金泳三は、粛軍クーデタや光州事件での再捜査を検察に指示します。捜査の結果、全斗煥は死刑、盧泰愚は懲役17年の刑が確定しました。のちの、金大中が大統領になると全斗煥と盧泰愚は減刑・特赦されます。
金泳三以後の文民政権は光州事件を再評価した
金泳三政権に始まる文民政権(軍人出身ではない大統領による政権)は、1980年におきた光州事件について再評価します。その結果、光州は民主化運動の聖地となり、光州事件を記念する事業が数多く行われました。光州市内には5・18記念墓地や、5・18記念公園など光州事件の発生日にちなんだ施設や記念碑がつくられます。2017年に成立した文在寅は、自らの政権を光州事件の延長線上に成立した政権と位置づけました。