なぜ藤原京から平城京へ遷都したのか_その1
一つの説としては、飛鳥地域に近いため、豪族たちは藤原京に移り住まず、依然として飛鳥の自宅から都に通っていたためと考えられています。同時に飛鳥地方の豪族たちの勢力が、この時期になっても依然として強かったのではないかという説があるのです。飛鳥の豪族たちの力を削ぎ、遠く離れた平城京に来るものだけで政治をおこなおうとしたと考えられています。
それは、奈良時代後半になって南都勢力といわれた寺院勢力の力が強まり、天皇の位にまで口を挟むようになり、それを避けるために長岡京や平安京に遷都したのと似ていました。
こちらの記事もおすすめ
長岡京とは?平城京と平安京の間に10年間だけ存在した幻の都 – Rinto~凛と~
なぜ藤原京から平城京へ遷都したのか_その2
また、藤原京を拡張したり、平城京に遷都した理由としては、もう一つ考えられています。中央集権政治をおこなうためには、臣下にあたる舎人などや新興の貴族たちが当初のもくろみよりも多く必要になったからともいわれているのです。
実際には、旧豪族たちの影響を避けることと両方の理由だったのかもしれませんね。
小さくてもはじめて中央集権政治を実現した
当初の藤原京は規模は小さかったと言われています。それでも、最初に都という都城都市として建設され、多くの舎人に支えられてついに天武天皇や天智天皇の悲願であった中央集権政治を実現することが可能になった都でした。
寿命は短かった藤原京と女系天皇の時代の到来
天智天皇、天武天皇の悲願だった天皇中心の中央集権政治を実現するために建設された藤原京でしたが、その寿命は思いのほか短いものになってしまいました。さらに、その後に建設された平安京の時代も80年ほどで終わっています。
このように、天武天皇以降目指した天皇中心の中央集権政治はなぜ衰退し、藤原京、平城京も短命に終わったのか、その原因を考えてみましょう。
持統天皇を支えた新興豪族や舎人たちはやがて力を持つようになり、権力と財力を持つ貴族となっていきました。逆に力のあった持統天皇の逝去(698年)後には、病弱な文武天皇や元明天皇、元正天皇などの女帝が続き、天皇家は再び力を失っていったのです。
文武天皇と聖武天皇へのつなぎの女性天皇
天武天皇の後の天皇は女系天皇によって支えられていました。それは、草壁皇子以来、天武天皇と持統天皇の子供たち、とくに男子の文武天皇も聖武天皇も体が病弱であったことが大きな要因となっていたのです。彼らへのつなぎになった元明天皇、元正天皇の女系天皇たちは、持統天皇を除いては自ら政治をおこなうことがなく、実際の政治は新興豪族、貴族たちに依存していたました。そのため、 藤原仲麻呂の乱、藤原広嗣の乱などのように貴族による反乱も多くなっていたのです。
病弱な男系天皇が続いた原因には、舒明天皇以来の血統を重視して近親結婚が多くなり、遺伝子欠陥が生まれたのかしれません。また、当時は持統天皇に殺された大津皇子の祟りもいわれたようです。奈良の大仏の建立の背景にはそのような祟りを除く意味もあったのかもしれませんね。
こちらの記事もおすすめ
仏教を厚く信仰した奈良時代の天皇「聖武天皇」を元予備校講師がわかりやすく解説 – Rinto~凛と~
天皇家存続問題は現在でもある
話は藤原京からややそれてしまいましたが、現在でも天皇家の存続問題が浮上しています。どのように天皇家を残すのかが良いのかは、今も非常に重要な課題になっているのです。安易に女系天皇を許容するのではなく、よく議論を尽くしてから決めたほうがよいでしょう。逆に現在のように、議論から逃げていれば、よけいに天皇家の存続は難しくなるだけです。