半日で鎮圧された反乱・無念の死
大塩平八郎の計画を知った跡部良弼は、にわかに信じがたしと戸惑いを見せたと伝わっています。
いくら何でもまさか、元与力が反乱を企てるなど、あるはずもない。そう思ったに違いありません。
一方、情報が漏れたことを悟った大塩平八郎は計画を変更。19日の早朝、自宅に火をつけ、同志たち300名とともに船場へ向かいます。船場には悪徳商人たちの店や倉庫が点在。大塩一派はここに大砲や火の矢を放って一帯を燃やします。
しかし事前に情報が漏れていたため、反乱はわずか半日ほどで終了。待ち構えていた奉行所役人たちに鎮圧され、殲滅してしまうのです。
同志は散り散りになり、大塩平八郎は大坂近郊に二か月ほどの間潜伏していましたが、最終的に見つかって包囲されてしまいます。
万事休すとばかり、持っていた火薬で自爆。遺体は埋葬されることなく塩漬けにされ、見せしめにはりつけにされてることになります。
大塩平八郎の遺体は焼けただれ、顔の判別もできなかったため「大塩はまだ生きているのではないか」との噂がたち、自体の収拾にはその後しばらくかかったのだそうです。
大塩平八郎の乱の影響と生田万の乱
隠居していたとはいえ、大塩平八郎は元与力。役人が反乱を起こした事実は、徳川幕府に大きな衝撃を与えることとなりました。
幕府に仕え、幕府の言うことに従うのが当たり前だった江戸時代。幕府への不満を行動で示すなど、当時の日本ではまず考えられないことだったのです。
半日で制圧されてしまった反乱。大塩平八郎の乱は、それ自体は歴史を変える事件とはなりませんでした。
しかし、大塩平八郎が発した檄文は、多くの人々の心を奮い立たます。警戒する幕府の目を盗み、大塩の檄文は人から人へ、書き写されて各地へと広まっていきました。
この一件に大きな影響を受けたのが、越後国で発生した生田万の乱(いくたよろずのらん)です。大塩平八郎の乱から数か月後、国学者の生田万(いくたよろず)が「民救」を掲げ、柏崎の役所を襲撃。乱はすぐに鎮圧されますが、これ以後、単なる暴動ではない「大義を掲げた世直し型の反乱」が増えていきます。
庶民の意識の変化。これも、大塩平八郎の乱が与えた影響のひとつと言えるかもしれません。
庶民のために立ち上がった正義の人・大塩平八郎の乱
農民や地方役人たち300人による、半日で鎮圧された反乱。本来なら歴史に名前が残ることもなく、当時起こっていた暴動一揆のひとつとして聞き流されていたかもしれませんが、この時代を象徴する出来事として人々の記憶に深く刻まれ、現代まで語り継がれてきたのだと思います。命をかけて、庶民の苦しい現状に目を向けてほしいと訴えた大塩平八郎。その思いは未来永劫、この先もずっと語り継がれていくはずです。