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理不尽なソ連の侵攻に果敢に抵抗したフィンランド「冬戦争」をわかりやすく解説

フィンランド軍の果敢な抵抗~冬戦争~

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要求を拒否されたソ連は、いよいよ力ずくでフィンランドへと侵攻を開始します。しかしフィンランド軍の凄まじい抵抗に直面することに。冬戦争のあらましについて解説していきましょう。

冬戦争の勃発

当時の両国の人口を見てみると、ソ連は1億7千万人、フィンランドはたったの370万人です。これだけでも国力に雲泥の差があるのですが、軍事力だけで比較しても、とても勝負にならない戦争だったといえるでしょう。

しかしフィンランド軍に味方するものがあるとすれば2つ挙げられるでしょうか。1つは不屈の敢闘精神、そしてもう1つはフィンランドの自然を巧みに用いた地の利でした。

1939年11月30日、ソ連軍は45万もの大軍をもって一斉に国境線を越えてきました。「冬戦争」の始まりです。かたやフィンランド軍の総司令官は、かつてフィンランド内戦で勇名を馳せたあのマンネルハイム元帥でした。ソ連侵攻にあたって彼は将兵たちにこう訓示しています。

 

「勇敢なるフィンランドの兵士諸君!私がこの職に就いたいま、不倶戴天の敵が再びわが国を侵そうとしている。

まずは自らの司令官を信頼せよ。諸君は私を知っているし、私もまた諸君を知っている。また階級を問わず、皆がその任務の達成のためでならば死を厭わないことも知っている。

この戦争は我々の独立の継続のため以外の何物でもない。我々は我々の家を、信念を、国を守るために戦うのだ。」

 

フィンランド軍の兵力はどんなに頑張ってかき集めても20万そこそこ。しかも大砲や戦車も数えるほどで、航空機なども旧式の装備しかありません。

いっぽうソ連軍はその兵力もさることながら、大砲が約2,000門、戦車が2,400両、航空機が700機近くもあるわけですから、ほんの数日で決着するものと判断されました。冬用のオーバーコートすら準備していなかったそうです。

地の利を駆使して善戦を続けるフィンランド軍

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Finnish official photographer – http://media.iwm.org.uk/iwm/mediaLib//31/media-31414/large.jpg This is photograph HU 55566 from the collections of the Imperial War Museums. , パブリック・ドメイン, リンクによる

大軍で攻め込んだソ連軍でしたが、思うほど進撃がはかどりません。それもそのはず、フィンランドは「森と湖の国」とも評される自然地形が特徴ですから、いくら大軍がやって来ようとも一気に進軍することはできません。

ソ連軍戦車は深い森と、数万あるともいわれる湖沼に阻まれて思うように展開できず、そこを物陰からフィンランド兵が思うように狙い撃ちしてきます。それがモッティ戦術と呼ばれる包囲撃滅戦でした。

まず長く伸びた列の先頭を撃破して前進できなくさせ、さらに列の最後尾を襲って今度は逃げられなくするのです。逐次奇襲を掛けることで敵の戦力を消耗させたうえで、そのまま包囲するだけで零下マイナス40℃の中、冬装備を持たないソ連軍兵士たちは次々に凍え死んでいきました。

12月中旬にもなると、今度は記録的な寒波がフィンランドを襲い、モッティ戦術はますます猛威を振るうことに。特にラーッテ林道の戦いと呼ばれる戦闘では、フィンランド軍はソ連軍第163師団を包囲し、さらに163師団救援に向かってきたソ連軍第44機械化狙撃師団までもが壊滅したため、ソ連軍は戦略じたいの見直しを余儀なくされました。そして多くの戦略物資がフィンランド軍の手に渡ったのです。

このラーッテ林道の戦闘を含むスオムッサルミの戦いにおいて、フィンランド軍は大勝利を収めました。数万の損害を被ったソ連軍は進撃を停止することになり、フィンランド軍の強さを世界に知らしめたのです。

マンネルハイム元帥はこう語りました。

 

「実際、これほど我が軍の将兵が強く、ロシア兵がこんなに弱いとは思わなかった。」

 

それもそのはず。ソ連は1930年代における大粛清によって軍の幹部クラスをほとんど殺してしまっており、戦術に長けた指揮官はいませんでした。そのため、一たび混乱に陥ると収拾がつかなくなることが度々あったのです。

停戦

こうしたソ連の理不尽な行動に対して、国際社会は反発を強め、ソ連を国際連盟から追放させました。しかし冬戦争はまだ続きます。

スターリンはソ連軍総司令官を更迭させ、新たに名将ティモシェンコを任命しました。ソ連としてもこのままおめおめと負けて引き下がるわけにはいきません。再び攻勢を開始すると、数に物を言わせて損害も顧みずに進撃を続けました。

フィンランド軍が頼みとする要塞マンネルハイム線が突破され、続々と防衛線の内側にソ連軍が侵入してきました。それでもフィンランド軍は焦土戦術を巧みに使い、ソ連兵が休息する建物すら残しません。

またフィンランド側にはゲリラ戦に長けた狙撃兵。いわゆるスナイパーが多数いて、大いに敵を悩ませました。特にソ連軍から「白い死神」と呼ばれたシモ・ヘイヘは狙撃だけで500人以上を殺し、敵を恐怖に陥れました。

またヘイヘを含む32人のフィンランド兵たちは、4千人で攻めるソ連軍部隊を相手に、コッラ河畔の要地を守り抜いたといわれています。

そうしたフィンランド軍兵士たちの超人的な強さにも関わらず、戦力差は如何ともしがたいものがありました。さしものフィンランド軍にも限界が近づいていたのです。またソ連側も泥沼のようないつ果てしない戦いに疲弊し、戦争の落としどころを探っていました。

マンネルハイム元帥はリュティ大統領にこう言いました。

 

「戦える力がまだ残されている今こそ、和平交渉を行わねばならない。軍が壊滅した後、何を交渉材料としてソ連と協定を結ぶのだ。残されるのは完全な屈服だけだ。」

 

フィンランド軍が粘り強く戦っている間に有利な交渉を進め、講和を結ぶこと。これが最善の策だったに違いありません。翌年1月末にはソ連側から和平交渉の打診があったことを好機として、戦闘と並行しながら話し合いが進められました。

そして厳しい講和条件は変わらなかったものの、3月6日に停戦協定に達したのです。フィンランド軍の損害は少なくありませんでしたが、ソ連軍の方がさらに悲惨な被害を被る結果となりました。

冬戦争が終わった時、フィンランド軍の死者は2万7千人。ソ連軍の死者は12万人以上。一説には20万人以上ともいわれていますね。

講和の条件として、フィンランドは国境に面したカレリア地峡を割譲する形となりました。しかしソ連軍による占領を防ぐことができたのです。まさにフィンランドの矜持を示したと表現してもいいでしょう。

対ソ連の第2ラウンド~継続戦争~

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不明http://www.tincrossmilitaria.com/Finnish%20Tank.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

ソ連に屈服したかに見えたフィンランドですが、実は第2ラウンドがありました。それが「継続戦争」という戦い。簡単にその成り行きを追っていきましょう。

手を組むべきはナチス・ドイツ

いったんはソ連に屈服した形となったフィンランドですが、ただでは転びません。当時ドイツはヨーロッパ各地で大勝利を収めており、ナチス・ドイツと手を組んで失地回復を目指すという方針に切り替えたのです。

1940年8月、フィンランドはドイツと秘密協定を交わし、大きな戦力を持つドイツ軍を味方につけました。そして1941年6月にバルバロッサ作戦が開始されて独ソ戦が始まると、フィンランド軍もまた失ったカレリア地峡へ向けて進軍を始めたのです。フィンランドは「冬戦争の継続」だと主張したため、この戦争を継続戦争と呼びます。

ドイツ軍の快進撃とともに易々と失地を奪回し、ソ連側のいくつかの都市を手中に収めたフィンランドですが、戦争が長引くにつれて、次第にドイツの敗勢が明らかになってくると不穏な雰囲気が流れ始めました。

「ひょっとすると、これはまずいのでは?」

各地でドイツ軍が敗れ、もはやソ連軍の攻勢が圧倒的となっていた1944年2月、フィンランドはソ連に対して講和交渉を打診します。ところがソ連側の反応はにべもないものでした。

「講和したければ、フィンランド国内にいるドイツ軍を追い出し、ドイツに宣戦布告するように。」

当時のフィンランドからすれば、とても飲めない条件でした。そんなことをすればイタリアやハンガリーの二の舞になるわけで、仕方なく防衛体制を整えてソ連軍の来襲に備えるしかありませんでした。

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明石則実