周辺諸国の征服とカリンガ国遠征
即位したアショーカ王は周辺諸国を次々と制服し、マウリヤ朝の領土を拡大しました。旭日の勢いのアショーカ王は、デカン高原の東南部にあったカリンガ国を征服しようと戦争を仕掛けました。
カリンガ国はアショーカ王の祖父であるチャンドラグプタにも攻められましたが、この時はカリンガ国が勝利しています。
アショーカ王の治世9年目から始まったカリンガ国との戦争は凄惨を極めました。激しい戦いであまりに多くの人々が傷つき、死んだため戦場となったダヤー川の一帯は地で赤く染まったといいます。
戦いやその後奴隷にされたかして捕虜となったカリンガ国の住民10万人が死にました。マウリヤ朝も兵1万の損害を出します。惨状を目の当たりにしたアショーカ王は非道な行いを悔い改め、改心して仏教に深く帰依するようになりました。
法(ダルマ)に基づく政治と石柱碑の建設
カリンガ国との戦争が終わった紀元前258年、アショーカ王は普遍的な仏法である「ダルマ」に基づく政治を行うことを宣言しました。アショーカ王はダルマを刻んだ石柱碑や磨崖碑文をインド各地に建設させます。そこには、様々な教えが書き込まれました。
一つ目は、生類の不殺生・不傷害。人間だけではなく、あらゆる生き物をみだりに殺したり、傷つけてはならないということです。二つ目は、父母に従い、僧侶や長老を敬い、弱い立場の者を不当に扱わないという正しい人間関係。三つ目は、自分の力をコントロールする自制と他者を尊重する姿勢。民衆に慈悲深く接しようというアショーカ王の意向が伺えますね。
こういった内容が刻まれたアショーカ王の石柱碑は、西北インドからガンジス川流域、デカン高原などあらゆる場所にたてられました。
第三回仏典結集
アショーカ王はジャイナ教やバラモン教も保護しましたが、最も深く帰依していたのは仏教でした。ブッダの死後、仏教教団内でブッダの教えに対する意見の違いが表れていました。
正しいブッダの教えを後世に伝えるためには、ブッダの教えを整理する必要があります。そこで、仏教教団では何度かブッダの教えである仏典を集める事業を行いました。
ブッダの死の直後に第一回仏典結集。死の100年後に第二回仏典結集が行われます。そして、アショーカ王の時代に第三回の仏典結集が行われました。
こうした仏典の収集・整理の過程で仏典はブッダの教えである経蔵と仏教徒の戒律である仏蔵、仏教理論の研究書である論蔵の三種類に分けられます。ちなみに、第四回仏典結集はクシャーナ朝のカニシカ王の時代にも行われました。
スリランカ布教
スリランカにはアーリヤ系のシンハラ人がシンハラ王国をつくっていました。紀元前240年、アショーカ王は王子の一人であるマヒンダをインド南方にあるスリランカに派遣します。マヒンダはアショーカ王の長男で、20歳の時に出家していました。
スリランカに派遣されたマヒンダとその一行は、スリランカの王と交渉し許可を得たうえで、宮廷や付属の庭園で仏教の布教を始めます。また、女性信者が増加したこともあって、マヒンダは妹で尼僧となっていたサンガミッターをスリランカに呼び寄せました。
サンガミッターはブッダが悟りを得た地であるブッダガヤから、菩提樹の枝木を持参し、スリランカに植えます。マヒンダやサンガミッターが伝えた仏教は上座部仏教として、インドや東南アジア各国に伝えられました。
アショーカ王死後のインド
紀元前232年、アショーカ王は都のパータリプトラで生涯を終えました。アショーカ王の死後、巨大すぎた帝国は次第に衰退し分裂します。紀元前2世紀のはじめ、マウリヤ朝はマウリヤ朝の将軍だったプシャミトラによって滅ぼされました。以後、インド全体を統一するような巨大帝国は4世紀のグプタ朝まで現れません。マウリヤ朝やアショーカ王は仏典に登場する伝説の王朝となってしまいました。
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