室町時代戦国時代日本の歴史

戦国の出来過ぎ君「鍋島直茂」いつの間にか主家に取って代わった理由とその生涯を解説

主君・龍造寺隆信の討死に、龍造寺氏を支える心意気を新たにする

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直茂の主・龍造寺隆信は勇猛な武将でしたが、猜疑心が強く、冷酷なところがある人物でした。それがだんだんと人心を離れさせていき、注意を続ける直茂までもを遠ざけてしまいます。そして隆信は有馬・島津連合軍との「沖田畷(おきたなわて)の戦い」に臨みますが、なんと、はるかに少ない連合軍に敗れ、討死を遂げてしまうのです。残された直茂は、何としてでも龍造寺氏を守ろうと誓い、動き始めるのでした。

冷酷で猜疑心の強い隆信から徐々に遠ざけられてしまう

勢いのままに九州を制覇しようという野望を抱いた龍造寺隆信でしたが、やがて、元来持ち合わせた性格が災いするようになっていきます。

一族をほとんど皆殺しにされたという過去があるせいか、彼は非常に猜疑心の強い人物でした。そのため、少しのことで家臣や下働きの者を疑いっては殺してしまうということが増えていったのです。それは、姻戚であっても例外ではありませんでした。

加えて、酒色におぼれるようになっていった隆信は、度々それを注意していた直茂を遠ざけるようになってしまいます。これまでの信頼関係があったために殺されるということはありませんでしたが、隆信が直茂を疎んじるようになったのは明らかでした。新たに領地とした筑後(福岡県南部)任せるとして、自分から遠ざけてしまったのです。

沖田畷の戦いで主君・隆信が討死!

隆信の冷酷さは、徐々に家臣や降伏してきた武将たちの心を離れさせていきました。そしてついに、隆信の姻戚でもあった有馬晴信(ありまはるのぶ)が離反します。そこに薩摩の島津氏が加勢し、天正12(1584)年、龍造寺軍と有馬・島津連合軍による「沖田畷の戦い」が勃発しました。

龍造寺軍は6万、対する有馬・島津連合軍はたったの8千。かつての今山の戦いとは逆の構図となりました。

直茂は少ない相手を警戒し、「まず自分が先陣を切って様子を探ります」と隆信に申し出ましたが、直茂を疎んじるようになっていた隆信は、この時も彼の言葉を受け入れることはありませんでした。

果たして戦いは思わぬ結果となります。島津方の作戦にはめられた龍造寺軍は大敗し、乱戦の中で隆信も討ち取られてしまったのでした。

主を失った家を守る!強気な発言で敵を怯ませる

隆信の討死を知った直茂は自害して後を追おうとしましたが、周囲に止められて何とか思い止まり、龍造寺氏を守ることに尽力しようと気持ちを切り替えます。

戦の後、島津方が隆信の首を返しに来ましたが、ここで直茂は島津の意図が国の様子を偵察だということを察しました。

そこで彼はきっぱりと言い切るのです。

「主の首をご持参いただいたことはありがたいが、こんな不運の首など持ってこられても困ります。どこにでも捨ててしまって結構です」

もちろん、直茂が本当にそう思っての発言ではありません。主を失い、瓦解寸前だった龍造寺氏の姿など見せるわけにいかないと、直茂はわざと強気に出たのです。

この作戦は功を奏し、「龍造寺はまだ持ちこたえている」と判断した島津氏は、さすがに攻め込んでくることはありませんでした。

時の政権から認められ、主家に代わる力を持つ

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豊臣秀吉にいち早く接近していた直茂は、秀吉からも才覚を買われ、だんだんと龍造寺氏に代わって肥前の主としてみなされるようになっていきます。それは、徳川家康による江戸幕府が開かれてからも同じでした。何につけても「デキる」直茂は、積極的な下剋上を果たそうとはしませんでしたが、世の流れに乗せられ、主家に取って代わることとなったのです。

豊臣秀吉に実力を認められる

九州で島津氏の勢力が伸びてくると、それ以上に強大な勢力が動き出します。天下統一を目前に控えた豊臣秀吉が、大友宗麟の要請に応じて島津氏を討つための九州征伐を決行することになりました。

この情報を耳にすると、直茂は一応従う形を見せていた島津氏からすぐさま離脱し、秀吉方へと転換しました。実は、直茂は早いうちから秀吉と通じていたのです。秀吉も直茂の手腕を高く評価しており、龍造寺政家という当主がありながら、あえて直茂に国政を担うように命じたのでした。九州征伐後に一揆が起きた際、政家が出兵しなかったために秀吉の不興を買うのですが、この時に直茂が弁解して何とかその場を収めたということもあり、秀吉は直茂の方を国主として認めていたのです。

こうして、直茂は実権を握ることとなりました。朝鮮出兵に際しては、龍造寺軍とうたってはいるものの内情は鍋島軍と同じ状態で、だんだんと周囲からは直茂が下剋上するのではないかという噂まで立ち始めたのです。

実際に、直茂はすでに秀吉から龍造寺氏のものとは別に4万5千石の領地を直接与えられており、秀吉の直臣とみなされても仕方ない状態ではありました。しかし直茂にとって、外野から「下剋上するのでは」と疑われることは心外で、彼は下剋上の意志などなく、政家の息子・高房(たかふさ)が成人したあかつきには実権を高房に戻すという起請文を出してこれを否定したのです。

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