室町時代戦国時代日本の歴史

戦国の出来過ぎ君「鍋島直茂」いつの間にか主家に取って代わった理由とその生涯を解説

息子の失態を挽回する

とはいえ、豊臣政権から肥前の主として認められていたのは、もはや龍造寺氏ではなく直茂でした。彼がいたからこそ龍造寺氏は今まで命脈を保ってきたのであり、彼こそが龍造寺氏そのものだったと言っていいでしょう。龍造寺と鍋島の二重政権がしばらく続くこととなります。

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが起きますが、直茂は最初から徳川家康の勝利を見込み、東軍への参加を決めていました。そのため、兵糧となる穀物を買い占めて家康に献上したのです。

ところが、上方にいた息子の勝茂(かつしげ)が、何を思ったのか西軍に参加してしまいます。直茂にとってはとんだ計算違いでしたが、彼はすぐさま息子を止め、関ヶ原本戦に参加する前に戦場を離脱させました。

そして自身は九州における西軍勢力への攻撃を開始し、小早川秀包(こばやかわひでかね)立花宗茂(たちばなむねしげ)といった有力武将を降したのです。

勝茂の西軍参加という点では、龍造寺氏と鍋島氏自体が改易(かいえき/領地没収)されても仕方ないような事態でしたが、直茂の素早い行動が功を奏し、戦後は領地を安堵されたのでした。

直茂の台頭を恨んだ主が自殺、鍋島氏が家督を継承

この頃になると、誰もが直茂をはじめとした鍋島氏こそが肥前の主だと思っていましたが、ひとりそれを快く思わない人物がいました。忘れ去られた龍造寺の当主・高房です。

高房は実権の回復を江戸幕府に訴え出ましたが、反対に幕府は龍造寺氏から鍋島氏への正式な家督継承をすすめるような態度を取ります。このため、どうしようもない怒りを抱えた高房は、慶長12(1607)年に直茂の養女である自分の妻を殺害し、自殺を図ったのでした。

この時高房は一命を取り留めたのですが、直茂は高房があてつけのような自殺を図ったことに憤慨し、まだ存命だった政家に「これまで龍造寺氏に尽くしてきたのに、こんなことをするなどあてつけでしかない」という旨の「おうらみ状」を送っています。

直茂が本当に下剋上を欲していなかったのかどうかはわかりませんが、高房の行動はショックだったことでしょう。しかもこの後に高房は再び自殺を図り、命を落としてしまうのです。

こんなドロドロとしたことがあったため、直茂自身は龍造寺氏からの家督相続を受けず、息子の勝茂に任せ、彼を初代佐賀藩主としたのでした。

化け猫騒動のモデルとなった最期

ひと騒動から11年後の元和4(1618)年、直茂は81歳で亡くなりました。耳に腫瘍ができ、その痛みに苦しんだ上での最期だったと伝わっており、巷では龍造寺高房の祟りではないかとまで噂されたそうです。

こうした一連のお家騒動は、後に「鍋島化け猫騒動」という怪談のモチーフとなりました。鍋島の殿様に殺された家臣の飼い猫が、主人の恨みを晴らすために化け猫となって殿様を苦しめるという話ですね。

といっても、直茂が血を流さずに事実上の下剋上を果たしたことは、大きな功績と言っていいでしょう。本来なら下剋上される側は一掃される運命にありますからね。また、龍造寺から鍋島への家督継承の際には、龍造寺隆信の弟たちはそれを支持したと言いますから、直茂に任せた方がいいという流れが大きかったのでしょう。

有能な者こそ主となるべき典型的な見本

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ひょんなことから主君・龍造寺隆信と義兄弟となり、その肥前統一を支えた鍋島直茂。しかし、隆信亡き後衰えゆく龍造寺氏に対し、彼の才能はもはや主家を凌駕していました。彼が図らずも下剋上することになったのは、天が定めた既定路線だったのかもしれませんね。

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