5.将軍権力がますます拡大!暴走していく義教
将軍権力を盤石なものにし目的を達成するためには、やはり手段を選ばず邪魔者は消さねばなりません。義教が目を付けたのは、将来の禍根を絶つべき武家勢力だった鎌倉公方足利持氏。義教とは不倶戴天の敵ともいえる存在でした。
5-1.悪化していく将軍と鎌倉公方の関係
前将軍義持の死後、鎌倉公方だった足利持氏は自分こそが次期将軍にふさわしい存在だと自負していました。鎌倉公方とは京都の将軍家に連なる鎌倉府の長官で、足利氏が世襲していました。
ところが僧籍にあった義教が将軍に就いてしまうことによって将軍への道が閉ざされ、持氏は義教に対して深い恨みを抱くことになりました。
鎌倉公方は代々、京都の将軍の名を承っていましたが、義教の意向を無視して息子に勝手に名を付けたり、元号が変わっても新元号を使用しなかったり、とかく犬猿の仲になっていったのです。
この幕府と鎌倉府の連携のまずさが、度重なる戦乱を招いたともいえますが、その禍根はますます深くなっていったのでした。
5-2.永享の乱で鎌倉公方を滅ぼす
鎌倉公方を支える関東管領に就任していた上杉憲実は、そんな持氏をたびたび諫めますが、持氏は聞く耳を持たないどころか逆に反逆者だとして憲実を討伐しようとしました。
そこで鎌倉公方を倒す絶好の好機と見た義教は全国へ下知を飛ばし、勅令を奉じて持氏討伐へと踏み切ったのです。(永享の乱)
圧倒的な軍勢に囲まれた持氏は降伏しますが、義教は決して許さず、ついには一族を根絶やしにしてしまったのでした。持氏の遺児二人を奉じて結城氏が反乱を起こしますが、これも大軍で囲んで討伐。関東地方において義教の絶大な権力が及ぶようになったのです。
5-3.有力守護大名の家督問題に介入する義教
将軍や幕府より力の強い守護大名たちを抑え込むために、義教が取ったもう一つの統制策は「家督問題への介入」でした。頼まれてもいないのに勝手に他家のことに口を出し、自分にとってプラスになりそうな人間にどんどん家督を継がせていこうとしたのです。
斯波氏を皮切りに山名氏、細川氏、畠山氏、一色氏、土岐氏など自分の思惑通りに家督問題をコントロールし、自分の息の掛かった者たちに家督を継がせました。
これはかつて兄義持が直面した「自分の言うことを聞かない幕臣たち」の排除を目的としたもので、有力守護大名たちの結束の防止と、将軍の専制性を高めるためのものでした。これによってますます義教は独裁者となっていったのです。
しかしこのことが義教自身の首を絞めることになろうとは、彼本人も気づかなかったことでしょう。
5-4.義教、嘉吉の変で討たれる
そんな独裁者義教の最期はあっけないものでした。義教が「家督相続への介入政策」を推進したことで自らの地位が危ういと疑心暗鬼に陥った播磨守護赤松満祐が、将軍弑逆という大それたことをやってのけたのです。
1441年、結城合戦の戦勝祝いとして赤松邸に招かれた義教は、宴を大いに楽しんでいました。彼に随伴しているのは細川持之、畠山持永、山名持豊、一色教親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熈貴、細川持春、赤松貞村など。いずれも義教によって家督を継がせてもらった者たちばかりでした。
猿楽を鑑賞している時、にわかに馬が放たれ場は騒然となりました。「何事か!」と義教が叫ぶやいなや障子が開け放たれ、武装した武者たちが踊り込みます。宴の席に乱入した武者たちは、あっという間に義教の首を斬り落としてしまいました。
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その場に居合わせた義教ブレーンともいうべき多くの守護大名たちは、主君の仇を取るどころか真っ先に逃げ出してしまいました。カリスマ将軍を失った室町幕府は機能不全に陥り、将軍を討った赤松主従は悠々と領国へ引き上げていったそうです。
「御前において腹切る人無し、赤松落ちて行く。追い懸けて討つ人なし。未練は謂量なし。諸大名同心か、その意を得ざる事なり。所詮赤松討たるべき御企て露顕の間、さえぎって討ち申すと云々、自業自得、果たして無力の事か、将軍かくのごときの犬死、古来その例を聞かざる事なり。」
看聞日記には、義教が亡くなって腹を切る者もいなければ追いかけて仇を討つ者すらいない。まるで犬死のように将軍がこのような殺され方をするのは聞いたことがない。と綴っていますね。「悪公方」と呼ばれ人々を恐怖に陥れた独裁者の最期でした。
人を大事にしなければ、それは仁政とは言えない
こうしてあっけない最期を遂げた足利義教。彼のおこなった革命的な政策自体は非常に理に適っていて素晴らしいものでした。しかし「将軍はこうあるべき!」という理想に固執し続けたおかげで最期は道を踏み外す結果となってしましました。もし彼の性格が真っ当なものだったとしたら、日本の歴史は大きく変わっていた可能性すらあるのです。人を大事にしなかったことが彼の失敗の原因なのでしょうね。