室町時代日本の歴史

5分でわかる「足利義教」の生涯!くじ引きで決まった?恐怖政治を敷いたのはなぜ?わかりやすく解説

3-2.料理がまずいという理由で料理人を斬首

既述したように、延暦寺の使節を呼び寄せて殺害した件など、どうも義教には偏執狂を疑うべき所業が多く見受けられます。伏見宮貞成親王によってこの時代に書かれた【看聞日記】を参照すればそういった類の逸話がたくさん出てきますね。

義教が伊勢神宮参拝の際に同行させた料理人の料理がまずく、料理人は途中から京都へ追い返されました。しかし京都へ戻ると赦免するという言葉を賜ったため、喜んで出仕するといきなり捕らえられ、近衛河原で処刑されたそうです。

その処罰の理由は看聞日記によれば「些細なこと」らしく、義教がいかに気まぐれで陰惨な性格をしていたかが理解できるでしょう。

3-3.些細なミスで侍女を追放する

長谷川某の息女【少納言】が申次ぎの誤りという些細なミスを犯しただけで義教は殴りつけ、強引に髪を切って尼にし、法華寺へ追放しました。

少納言の父が持つ所領までも没収してしまったといいますから、その傍若無人ぶりがよくわかりますね。

また公家の中山定親が薩戒記という日記の中に、義教が将軍職を継承してからを回想したものがありますね。処罰、又は蟄居させられた人々の名前を書き残しています。

義教はその記録によると、実に80人もの貴族、僧侶、女房たちを大量処罰しました。このデータは義教が殺害される7年前のものですので、実際は武家などは含まれておらず、もっと数は多かったことでしょう。

4.義教はなぜ恐怖政治を敷いた?

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日本語: 京都アスニー収蔵 English: Collection of Kyoto Asney archive – [1] and [2], パブリック・ドメイン, リンクによる

ところで義教はなぜ万民が恐怖するような政治を行ったのでしょうか?そこには足利将軍が置かれた悲しい現実があるのです。当時の状況を踏まえて少し解説していきましょう。

4-1.実力が伴わなかった足利将軍

「足利将軍の立場が弱かった。」ということは既述しましたが、もう少し深堀りして解説してみたいと思います。

のちの江戸幕府の場合、将軍は全国に「天領」と呼ばれる直轄地を400万石も持っていました。伊達や島津や毛利といった外様雄藩が束になってかかっても到底叶わないわけです。いわゆる強力な経済力さえあれば政治は思いのままでした。

ところが室町幕府や足利将軍の場合、直轄地と呼べる「御料所」がいくらかあったものの、打ち続く戦乱の中で多くが横領されてしまったといいます。経済力を持たない存在は、いかに偉い位に就こうが実力が伴わなければ有名無実なものに過ぎません。

また経済力がないということは、それはそのまま軍事力にも比例するわけです。直属の軍勢こそある程度持っていたようですが、他の守護大名と比較すれば、たいした実力を持っていないということになります。それゆえに軽く見られていたということなのですね。

4-2.将軍権力が失墜しかかっていた

室町幕府が発足した当時、日本は内乱の真っただ中にありました。いわゆる南北朝時代にあたっていたわけです。日本全国が北朝方(幕府方)と南朝方に分かれて相争っていた時代ですね。

武士たちはそれぞれ自分の考えや都合に合わせて、味方する陣営を選んでいたわけですが、そこには多くの裏切り行為が散見されています。

自分の政治的立場が危うくなると南朝方に走ったり、戦いで分が悪くなると今度は北朝方に付いたりと、およそ忠義や義理などあってなきが如くの状態が日常茶飯事だったわけです。

南北朝時代が終わって日本が統一されてからも、その風潮は続くこととなりました。だいたい忠義や義理が存在しない以上、自分に得がないのに将軍の言うことを聞く義理もありません。足利将軍は守護大名たちが好き勝手に行動することを抑えられなかったのです。

4-3.将軍親政が歴代将軍の願いとなった

日本の政治を安定させ、平和を保つためにはトップダウンで命令を下す必要があります。ところが足利将軍には経済力も軍事力もありません。あるのは征夷大将軍としての箔とプライドのみ。

そこで歴代の足利将軍たちは義教も含めて、いかに有力守護大名間の力のバランスを取り、統制し、言うことを聞かせることができるのか?ということに腐心しました。

ある時は将軍の身内と婚姻関係を結ばせて取り込んだり、争いの仲裁をして権威を保ったり、また高い官位を与えてやることで恩に着せたりなど、あらゆる手段を尽くして「将軍に頭が上がらない」ようにしたわけです。

政治を有力守護大名が牛耳ることなく、将軍が自ら行うことこそが国を安定へ導く道だと悟っていたのですね。そういった将軍親政は歴代将軍の願いであり、夢でもありました。

4-4.将軍親政のために義教が考えたこと

ところが義教は、歴代将軍が成しえなかった方法で将軍親政を目指しました。それがすべての人間を恐怖で縛る「恐怖政治」だったのです。

このような政治の元では、人はいつ処断され命を失うかわかりません。守護大名や側近のみならず、高僧や有力商人らに至るまでみな義教の機嫌を伺い、腫れ物に触るかのように気を使っていたことでしょう。

義教が気付いていたのかはわかりませんが、仕事というものは結果を恐れないからこそ思い切ったことができるもの。しかし失敗すれば義教の叱責が待っているわけで、下手をすれば命を失いかねません。そのため良いことしか義教の耳に入れないこととなり、結局は政治が停滞してしまうことになるわけです。

やがて口に出さずとも人々の不安や不満はたまるいっぽうとなり、いつしか暴発するしかなくなった時、義教の目指す将軍親政も終わりを迎えることとなりました。

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明石則実