室町時代日本の歴史

5分でわかる「足利義教」の生涯!くじ引きで決まった?恐怖政治を敷いたのはなぜ?わかりやすく解説

2-1.将軍就任後、強権をふるう

義宣はやがて名を【義教】と改めて将軍親政政権を目指すことになります。先代の義持の頃には有力守護大名たちの力が強く、将軍をないがしろにする行為も見られたため、彼が僧籍にある頃から「将軍たるもの臣下にナメられてはいけない!」と思っていたことでしょう。

まず将軍権威の向上を図って、能力のある者を評定衆に抜擢し将軍の御前で政策を協議させました。また力を持ちすぎた管領家の力を抑えるために、訴えや相談があれば管領ではなく自分に直接訴えるようにと命じ、政治の実権を自分に集中させようとしたのです。

しかしそうすることで不満を覚える有力大名もいるでしょう。そこで彼は「不満を持つ者を抑える方法」を見出します。それがキーワードとなる【恐怖政治】だったのです。自分に逆らう気持ちを失うほどの恐怖を与えること。それは後年現れる織田信長の手法と同じだったといえるでしょう。

2-2.儀式の最中に笑っただけで所領を没収された公家

ここで見せしめとなった人物がいます。東坊城益長という公家で、儀式の最中に「笑顔を見せた」という理由だけで「将軍を笑ったに違いない!」と難癖を付けられ、所領没収の上蟄居を命じられました。

一説によれば「将軍を怒らせたら恐い」というイメージを植え付けるために、あえて犠牲になったともいわれていますね。なぜならこの事件の後に益長はすぐに許されていますし、義教の不興を買ったと言われるのはこの時だけではないからです。

もしかすれば義教と益長の自作自演だったのかも知れませんね。

2-3.親衛隊を編成して武力強化を図る

将軍権威を高めるには、やる気やスローガンだけでは心許ないもの。そこで義教は力の背景といえる武力を充実させようと思いつきました。

過去の将軍たちは有力守護大名たちの武力に守られ、その微妙なバランスの上に存在していたようなものでした。しかし義教は広範囲に行使できる実力をもって有力大名たちの頂点に君臨しようとしたのです。

どの大名にも属していない京都近隣の山城・丹波・近江周辺の地侍たちを直属させ、【奉公衆】という形態を組織しました。その動員能力は1万人ほど。在京の守護大名たちが絶対に逆らえない状況を作り上げたのです。

軍事力の強化だけではありません。途絶していた日明貿易を復活させて幕府の財政再建も図っており、まさに「カネと力」によって本来あるべき将軍の姿を具現化しようとしたのでしょう。

2-4.比叡山延暦寺を武力で包囲!

かつて天台座主だった義教は、同じ宗門の比叡山延暦寺に対しては融和的かと思いきや、全くそのようなことはありませんでした。

延暦寺は創建以来、国家鎮護の地として崇められていましたが、政治権力が介入できない宗教勢力として君臨していたのです。

 

「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」

 

これはかつて白河天皇が「自分の思い通りにならないもの」と嘆いた言葉ですが、平安の頃から延暦寺は手前勝手な要求を繰り返し、聞き入れられないと見るや武力行使に及ぶという厄介な存在でした。

多くの武装したお坊さん。いわゆる僧兵を抱え、権利を行使するためにたびたび山を下りては乱暴狼藉を繰り返すわけです。時の為政者にとっては厄介な存在でした。

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663highland投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, リンクによる

1433年、幕府の山門奉行に不正がありとして延暦寺が弾劾訴訟を突き付けます。融和策を講じたい幕府は仕方なく奉行たちを免職し、処分を下しました。義教もまた心ならずも納得したはずでした。

ところが延暦寺側は調子に乗って訴訟に同調しなかった園城寺を焼討ちするという暴挙に及びました。さらに義教を呪詛しているという噂も起こる始末。そこで激怒した義教は軍勢を差し向けて比叡山を包囲し、なんと織田信長の130年以上前に延暦寺に対して武力を行使していたのです。

恐れおののいた延暦寺側は降伏しますが騒動はこれで収まりません。執念深い義教は延暦寺の使節を京都へ招き、あろうことか無残にも殺戮してしまったのです。さらに延暦寺に関して噂をする者は全て斬罪に処すと触れを出し、世間を震撼させました。

3.もしかして精神疾患?些細なことで激怒する義教

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By 不明 – The Japanese book “Zen treasures from the Kyoto Gozan temples (「京都五山禅の文化」展)”, パブリック・ドメイン, Link

将軍権威を高めるためにずっと心を砕いていた義教。彼の精神状態を想像してみることしかできませんが、その病的ともいえる執念深さや猜疑心、異常な心の有り様などは鬱屈した感情の発露と見て良いかも知れません。やがて彼の怒りの矛先は身分や階層の垣根を越えて、あらゆる人間へと向かっていくのです。今に伝わる狂気の逸話を見ていきましょう。

3-1.説教をしようとした僧に焼けた鉄の鍋をかぶせる

全国各地へ赴いて布教活動に執心し、日蓮宗を広めたとされる日親。京都の多くの諸寺を日蓮宗へ改宗させ、将軍義教にも説法をする機会を得ますが、その相手が悪かったといえるでしょう。

世情の不安を説き、将軍家自らが日蓮宗へ改宗することこそ不安を取り除く方策だと説教してしまったのです。案の定義教は大激怒。日親は激しい拷問を受ける憂き目に遭いました。

しゃべれないように舌を切り取られ、灼熱に焼けた鍋を頭からかぶせられたそうです。頭皮と鍋が癒着してしまい一生取れずに過ごしたそうで、人々は【鍋かぶり上人】と呼んでいたとか。

しかし弾圧を加えられても日親はあきらめませんでした。後年、義教が嘉吉の変で殺害されると罪を許され、布教の拠点となる本法寺を再建するのです。

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明石則実