ついに当代随一の絵師となった等伯
By 663highland, CC 表示 2.5, Link
一度は狩野派によって夢を絶たれたかに見えた等伯ですが、彼のその類まれな才能に天が味方したのか大きなチャンスが訪れます。長谷川等伯の名を現在にまで残すことになる大仕事が待っていたのでした。
一世一代の大仕事「金碧障壁画・楓図」を手掛ける
等伯にとってそのチャンスとは、狩野派のボスこと狩野永徳が死去したこと。柱石ともいえる永徳の死によって狩野派は一時的にその力を弱めることになりました。そこへ舞い込んできたのが豊臣秀吉からの依頼だったのです。
秀吉の子「鶴松」が亡くなり、その菩提を弔うために祥雲寺(現在の智積院)の障壁画を等伯とその一派が手掛けることになったのでした。1592年、等伯54歳の時にそれは完成しましたが、大画方式を用いて、楓などの大木や草花を所狭しと金地の濃淡で彩り、安土桃山ならではの絢爛豪華たる世界を作出したのです。
大木が絵から飛び出しそうなくらい迫力のある画風は、亡きライバル狩野永徳が得意としたのもでした。もしかしたら生涯のライバルとなった永徳へのレクイエムだったのかも知れませんね。
いずれにしても等伯への評価はこの時をもって不動のものとなり、不世出の絵師として歴史に名を残すことになりました。
将来が嘱望された息子の死
しかし等伯にとって絶頂は長くは続きませんでした。祥雲寺障壁画が完成したその翌年、後継者として将来を嘱望された息子「長谷川久蔵」が26歳の若さで急死したのです。
等伯の悲しみや嘆きはいかばかりだったことか。しかし等伯は悲嘆の中にあっても創作意欲を失うことはありませんでした。そんな深い悲しみの中から作り上げたのが傑作「松林図屏風」だったのです。
これまで水墨画の研鑽に努め続け、自らを「雪舟五代」だと自負するほどの才能は、この松林図屏風の完成によって自他ともに認めることになりました。
描かれた松は、たおやかなれど力強く映り、自らの意思で立っているようにも思えます。そして見る人の心の機知によって景色が変化するような錯覚すら覚えますね。まさしく亡き久蔵への思いが描かせた作品ではなかったでしょうか。
1599年、久蔵の七回忌を期して「大涅槃図」を描き、それを深い縁で結ばれた本法寺へ寄進しました。涅槃図とは釈迦の入滅の情景を絵にしたもの。釈迦の周りに描かれた弟子たちは、もしかしたら等伯自身の姿なのかも知れません。そんな哀悼の思いが伝わってくるようですね。
不世出の天才等伯没する
すでに豊臣秀吉は亡くなり、徳川の時代になっていました。老齢の等伯は66歳の時に法橋(上人位)に叙せられ、さらに翌年には法眼(画師や連歌師に贈られることが多かった)に叙せられています。
そして当時としては高齢ともいえる70歳で「弁慶・昌俊相騎図大絵馬」という大作を作り上げ、その作風の力強さを見ても、老齢でありながら創作意欲を失っていないことがうかがえますね。
そして72歳の時(1610年)、徳川家康に召されて江戸へ向かうことになりました。秀吉亡き後、最大のパトロンとなる存在が家康だったからです。長谷川派の未来と栄達のために最後に身を捧げようとしたのでした。
しかし長途の旅は、老齢の等伯にとって重い負担となりました。道中で病に罹り、江戸に着いたわずか2日後、この世を去ったのです。
等伯自身の存在はまさに偉大なものでしたが、その後の長谷川派は等伯に並び立つほどの人物を輩出せず、力を失っていきました。しかし長谷川派の末裔たちはその後も絶えることなく等伯の跡を継承していきました。江戸時代には、かつてライバルだった狩野派の絵師らと合作を残したという記録もありますし、現在の京都でも絵を続けている子孫たちが存在しているそうです。
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長谷川等伯の代表作を一挙に紹介!
これまで語ってきた長谷川等伯の事績のうちから、代表作を何点かご紹介していきましょう。いずれも国宝クラスの傑作ですから、ぜひ実物を鑑賞する機会があれば良いですね。
等伯の生涯の友【日通上人像】
By 長谷川等伯 – 長谷川等伯・日通上人像, パブリック・ドメイン, Link” target=”_blank”>
本法寺10世日通上人は、等伯を陰に日向に支え続けた人でした。上洛したばかりの頃に援助をしたのもこの人ですし、千利休との出会いを演出したのもまた日通でした。
またこの本法寺には、等伯が京都へやって来て最初に手掛けた「日堯上人像」も保管されており、いずれも国の重要文化財となっていますね。
「日通上人像」「日堯上人像」ともに一般公開はされていませんが、等伯の筆による「仏涅槃図」は毎年春先に公開されています。