室町時代戦国時代日本の歴史

なぜ暗殺された?主家の滅亡を予言した「太田道灌」戦国最強の軍師の生涯をわかりやすく解説

長尾景春の乱の鎮圧にも乗り出す

古河公方・足利成氏に対抗するための算段を練っていた道灌ですが、ここで思わぬ事態が起きてしまいました。同じ上杉の中で内紛が起きてしまったのです。

山内上杉家の当主・上杉顕定(うえすぎあきさだ)が、家宰の地位を別の者に与えたことを不満に思った重臣・長尾景春(ながおかげはる)が、主家に対して反旗を翻してしまったのでした。これが、享徳の乱の最中に同時進行で起こった「長尾景春の乱」です。

景春と道灌はいとこ同士だったため、景春から誘いもあったのですが、道灌はこれを断り、享徳の乱での戦を進めつつ、景春とも対峙する道を選びました。彼からすれば、主家である扇谷上杉家が補佐する山内上杉家に反抗する景春は逆賊ですから、当然のことだったわけですね。

「すべては自分の功績」と誇るも、それが破滅を招く

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まず、道灌は長尾景春の乱を鎮圧することに尽力し、見事それを成し遂げます。彼無くして景春の乱の鎮圧はなく、彼こそが最大の功労者だったわけですが、それを正当に評価されないことが、彼の心に不満を芽生えさせました。そしてそれは主家にも伝わり、互いに疑心暗鬼となっていくのです。結果、やはり家臣でしかなかった道灌は、主君によって命を奪われることとなります。彼の破滅のはじまりはどこだったのか…道灌の最期までを見ていきましょう。

長尾景春の乱を鎮圧

長尾景春方の城を次々と落とした道灌は、快進撃を続け、ついに景春の最後の拠点・日野城(ひのじょう/埼玉県秩父市)を落とし、長尾景春の乱を鎮圧することに成功しました。

実はこの間、彼は古河公方対策も行っていたというのですから、その頭脳と行動力には驚かされます。

長きにわたる享徳の乱で疲弊してきた古河公方・足利成氏は、上杉方との和睦を考えるようになっていましたが、成氏に加担している千葉氏が和睦に反対していました。

ここに目をつけた道灌は、千葉氏内部での対抗勢力を担ぎ出し、千葉氏自体を分裂させるのです。

こうして、古河公方と上杉方での和睦が成立し、30年にわたる享徳の乱は、ようやく収束に向かうこととなりました。

享徳の乱と長尾景春の乱の両方とも、道灌の活躍なくして収束はありえませんでした。ほぼ負けなしで戦い抜いた彼の活躍はまさに「八面六臂」と呼ぶにふさわしいもので、彼は「山内上杉家があるのは、私のおかげだ」と書状の上で自負するほどだったのです。そこまで言うことができたのは、彼の功績が誰よりもずば抜けていたからだったのでしょう。

出来過ぎたために、主君との行き違いが生まれる

道灌の名は一気に高まり、同時に、道灌が仕えた扇谷上杉家の力も高まることとなり、それは山内上杉家と拮抗するまでになりました。

本来ならば、第一の功臣を主君が大事に扱えばそれで済む話だったのですが、道灌の主君・上杉定正(うえすぎさだまさ)はそうできる人物ではなかったようです。

道灌の名声が高まることが面白くなかった定正は、時に道灌の意見を採用しないなど、明らかに彼を排除するような態度に出るようになっていきました。

また、扇谷家中からも嫉妬のようなものが出てきてしまい、「道灌が城を補修しているのは、謀反を起こすためではないのか」と定正に言いつける者まで現れたのです。

加えて、道灌が息子を和議の証として足利成氏に人質として差し出したことも、定正の不満を煽りました。道灌としては、自分に何かあったときのための保険としての行動だったのですが、よりによって上杉家が元々対立していた成氏のところに息子をやったということで、定正からすれば「反抗するための布石か!」と思ってしまったわけです。

一方、道灌もまた「自分のおかげで山内上杉家がある」とまで言うような人物ですから、高いプライドの持ち主でした。このため、彼は定正から正当に評価されないという不満を手紙の中で述べるなど、両者の間には明らかな溝が生じていきました。

主に招かれ…まさかの暗殺劇

文明18(1486)年、道灌は定正の館に招かれて足を運びます。そこで湯を使わせてもらった彼ですが、風呂から上がったところを待ち受けていたのは、定正の刺客でした。

そして彼は暗殺者の手にかかり、命を落としたのです。55歳でした。

智将・太田道灌にしては、あまりにあっけない最期。油断があったのでしょうか。しっくりいっていない仲とはいえ、定正が功労者である自分を害するはずがないという予断があったのかもしれません。

「当方滅亡」と主家の滅亡を予言

道灌を襲った刺客には、和歌の心得があったようです。刃を手に、道灌に対して「かかる時 さこそ命の惜しからめ(こんな時、さぞかし命が惜しいだろう)」と上の句を詠みかけました。

すると、自らも和歌に長け、時に戦の中で和歌を詠んだ逸話も持つ道灌は、刃をその身に受けながらも「かねてなき身と 思い知らずば(前から、自分など存在しない身と悟っていなかったならば、な)」と返し、その後「当方滅亡」と叫んで絶命したと言われています。

道灌の最期の言葉には、「自分が死ねば、主家(扇谷上杉家)もいずれ滅亡する」という意味がこめられていたそうですよ。果たして、道灌の予言通り、扇谷上杉家は衰退に向かいます。道灌が暗殺されたことで、道灌の息子や側近たちはみな山内上杉家に出奔し、翌年には両者の直接対決「長享の乱(ちょうきょうのらん)」が勃発して、両上杉家は自ら衰退の道を歩むことになるのです。

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