ヨーロッパに大きな影響を与えた「ヴァイキング(ノルマン人)を元予備校講師がわかりやすく解説
クヌートの北海帝国
8世紀末、デンマークに住んでいたデーン人たちはアングロ=サクソン人たちが住む大ブリテン島への侵入を繰り返します。9世紀末、アングロ=サクソン人の王であるアルフレッド大王がデーン人を撃退しましたが、11世紀には再びデーン人の活動が活発化しました。
1016年、デーン人の王であるクヌートはイングランドの貴族から、「王になってほしい」といわれ、イングランド王となります。貴族たちは弱く悪政を繰り返していたアングロ=サクソン人の王より強いクヌートを選んだのでしょう。
クヌートはイングランドだけではなく、デンマーク王であり、ノルウェーの一部も支配していました。そのため、クヌートの領土は北海全域に広がります。そのことから、クヌートが支配した国は、後に「北海帝国」とよばれました。
ノルマンディー公ウィリアムによるイングランド征服
クヌートが1036年に死去すると、彼が支配していた地域は分離・独立していきました。イングランドでも、アングロ=サクソン系の王が復活します。1066年、イングランド王エドワードが死去すると、王位をめぐって争いが起きました。争いで優位に立ったゴドウィン伯ハロルドが王となりハロルド2世を名乗ります。
これに異議を唱えたのがノルマンディー公ウィリアムでした。ウィリアムはエドワードの従兄であることを理由にイングランドの王位継承権を主張。イングランドに乗り込み、ハロルド2世とヘースティングスで戦い勝利します。
ウィリアムはウェストミンスター教会でイングランド王の戴冠式を行い、ノルマン朝を創始しました。ノルマン人によるイングランド征服なので、ノルマン=コンクェストともいいます。
戦いで勝利した結果成立したノルマン朝は王権が強い王朝で、抵抗するアングロ=サクソン貴族の土地を取り上げて家臣たちに分け与えました。
ルッジェーロ2世による両シチリア王国
11世紀から12世紀にかけて、ノルマン人たちの一派が南イタリアに進出しました。といっても、いきなり軍事的に征服したわけではありません。はじめは、傭兵として南イタリアに入り込んだようです。
11世紀中ごろ、ノルマン人のルッジェーロがイスラム勢力からシチリア島を奪いました。その子のルッジェーロ2世はシチリア王を名乗ります。ルッジェーロ2世はシチリア島だけではなく、カプアやナポリといったイタリア半島南部も支配しました。
さらに、ルッジェーロ2世は北アフリカにも進出します。教皇はルッジェーロ2世によるシチリア島と南イタリアの領有を認めました。彼が支配した王国は両シチリア王国と呼ばれるようになります。ルッジェーロ2世が生きていた時、両シチリアの海軍は地中海でも屈指の強さを誇りました。
アイスランド、グリーランドへの探検航海
すぐれた航海技術を持ったノルマン人たちは大西洋にも乗り出していきました。860年頃、ノルマン人たちはノルウェーの北西にあるアイスランドに到達します。
ノルマン人のアイスランド入植がはじまったのは9世紀のことでした。930年のインゴルフル=アルナルソンの一族によるものが最初の本格的移住とされます。
イングルフル=アルナルソンは、故国ノルウェーのハーラル1世の統治に反発しました。ハーラル1世は自分の統治に反発する人々を一掃するため、イングルフルらを攻撃。イングルフルは一族とともにアイスランドに逃れてきたのです。
982年頃、アイスランドの人々がグリーンランドに入植を開始。さらに、1000年頃、エリクソンらが北米大陸に到達します。しかし、北米への植民は失敗し、グリーンランドに渡ったノルマン人たちも数を減らして消息を絶ちました。
ノルマン人はキリスト教を受け入れ、現地に溶け込んだ
9世紀から12世紀にかけて、西ヨーロッパ各地を席巻したノルマン人は、その後どうなったのでしょうか。ノルマン人たちはキリスト教を受け入れ、征服した時の民族たちと徐々に一体化していきます。最終的には、本国である北欧を除き、進出した先のノルマン人たちは現地に融合して歴史の舞台から姿を消しました。今では、物語の中にヴァイキングとして語り継がれています。
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