日本の歴史鎌倉時代

仏教でも異色を放っている「浄土真宗」とは?宗派と歴史をわかりやすく解説

山科本願寺と石山本願寺

こうして加賀国は支配するようになったものの、この動きは近隣の大名はおろか、当時の政府の中心であった細川晴元が危機感を覚え始めることになるのです。

この頃本願寺の本拠地は吉崎御坊から山科本願寺に移っていましたが、この時の権力者であった細川晴元は日蓮宗の衆徒と結びついて山科本願寺を焼き討ちしてしまいます。(天文の錯乱)

この結果本拠地であった山科本願寺は焼失。仕方なく証如は大坂に構えていた石山本願寺に本拠地を移し、中央政府との関係を強化。

さらに山科本願寺の焼き討ちを踏まえて石山本願寺あたりの防御を完璧に固めていき、石山は石山本願寺を中心とした町が形成。日本有数の都市へと変貌を遂げていき、のちの大坂の基礎を打ち立てるようになるのでした。

顕如の登場と信長への反抗

こうして石山本願寺に本拠地を移したのち、時代は証如の息子である顕如の時代に移っていきます。この頃は比較的に平和だったそうですが、1560年に桶狭間の戦いが起こり、織田家が急成長。1568年には上洛を果たすようになり、信長は天下人としての地位を確実に固めていきました。この頃の本願寺は『王法為本』という「ある程度は権力者に従っていきましょう」という教えを持っていたこともあってか、この頃は信長の金銭要求に快く応じたりしていました。しかし、信長の要求はここにとどまることを知らず、なんと信長は本拠地であった石山本願寺の明け渡しも命じたのです。

顕如側からしたら王法為本があるから従わなければいけませんが、せっかく軌道にのり始めた本願寺の本拠地を失いたくないという思いももちろんあります。しかし、そんな時に本願寺の動きを決定づける出来事が起こるのです。

それが当時の将軍だった足利義昭と信長の対立でした。

本願寺からしたら時の将軍である義昭側につけば王法為本の教えを守ることができますし、ある程度の大義名分を得ることができます。

顕如はこの報告を受けて信長に挙兵することを決意。信長が畿内に勢力を持っていた三好家と争っている最中に「信長に反抗しなかったら破門する」という檄文を飛ばし、織田軍を突如攻撃。長島の願証寺も挙兵して長島一向一揆という一大一揆へと発展しました。

講和した本願寺と東西分裂

こうして始まった石山戦争ですが、本願寺顕如は石山本願寺に籠城しながら同じ信長に反抗している大名に対して連携を促していき、戦っていくことになりますが10年後の1581年に朝廷の力を借りて信長と本願寺は講和。その後顕如は石山本願寺を去って紀州に向かいました。

その後、本願寺は豊臣秀吉との仲を深め天満に新しい本願寺を建立。江戸時代に入ると七条に本願寺のための土地を寄進されこれが今の本願寺となっています。しかし、信長の講和の時にいざこざがあって本願寺は西と東に分裂。そのまま西本願寺と東本願寺が成立して今に至っているのです。

浄土真宗は日本の歴史に深い意義を与えた

image by PIXTA / 39803222

浄土真宗は仏教では独特の雰囲気があるにもかかわらず、信者数を増やしていき最終的には戦国時代の時に日本の色々な分野に大きく影響する存在へと変貌を遂げることになります。

もし暇があれば南無阿弥陀仏と唱えれば阿弥陀如来が空から助けてくれるかも知れませんね。

1 2 3
Share: