日本の歴史鎌倉時代

仏教でも異色を放っている「浄土真宗」とは?宗派と歴史をわかりやすく解説

現生正定聚

現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)とは阿弥陀如来より与えられた信心を受け入れば、絶対に極楽浄土に往生することが可能となり、死んだ後に悟りを開いて成仏することが出来る事をいう浄土真宗の教義の根幹の教えです。

悪人正機

浄土真宗の中でも特に重要なのが悪人正機という教え。

「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」という教えは一回は聞いたことはあるかもしれません。

浄土真宗では悪人こそが救済されるべき対象となるのですが、この場合の悪人は泥棒とか嘘つきなども含めている一方で、悪人は末法の俗世間にいる私たちのことで善悪の判断が付かない人もさしています。

「善悪の判断ぐらいついとるわ!」と思うかもしれませんが、浄土真宗においてはあなたが善だと思ってることはあくまでも法律や道徳などを基準にした善悪に過ぎず、阿弥陀如来からしたら根本的なことは全て悪だとしているのです。ましてや自力で往生しようとしている人なんて阿弥陀如来の本願を疑っているということですので浄土真宗の教えに真っ向から反対しているといっても良いのですよ。

親鸞曰く、何を行うにしても人間には煩悩があり、煩悩によるものは全て悪なので全ての行為は悪にしか過ぎないとしており、だからこそ悪人を救ってくれる阿弥陀如来の本願の力によって救済され、自分が自力では何もできない悪人であることに気づき本当の自分の姿を知るということが悪人正機の本質なんです。

そのため、悪人正機はただ単に人殺しを許容しているわけではなく、これが浄土真宗が誤解される一つのきっかけとなっていき、さらにこの間違いが戦国時代に爆発的に普及することになるのですがそれはまた後ほど。

浄土真宗の歴史

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ここまでは浄土真宗とはどんな宗派なのかを見ていきましたが、この浄土真宗は戦国時代には戦国大名と並び立つほどの強大な勢力を誇り、あの信長や家康などを苦しめたりもしていたのです。

次は浄土真宗はどのようにして現在の姿になっていったのかについて見ていきましょう。

親鸞による浄土真宗の成立

浄土真宗を成立させた開祖である親鸞は1173年に京都の公家であった日野有範の長男として生まれます。

その後、9歳の時に出家。比叡山延暦寺に登って本格的に修行に取り組むようになりました。

しかし、20年修行してもなかなか悟りを開くことができない。自分の限界を悟った親鸞は29歳の時に比叡山延暦寺を下山して六角堂に籠るようになりました。

そして六角堂にこもってから95日後のとある夜。親鸞は眠って夢を見るとなんと日本に仏教を広めた聖徳太子が現れお告げを聞かされます。

そのお告げを聴くと夜明けとともに当時浄土宗を開いていた法然のところに尋ねるようになり、入門を決意。興福寺らの他の宗派からの弾圧を受けて佐渡島に流されたりする苦難がありながらも、彼のもとで必死に修行して東国を中心に布教を開始。この地にてのちの浄土真宗の教えのもとになる様々な著書が書き記されていき、浄土真宗が成立したのでした。

影が薄い浄土真宗

こうして親鸞によって浄土真宗が成立していくようになりましたが、1262年に親鸞が入滅するとその宗派の勢いは停滞。曾孫にあたる覚如が親鸞が埋葬された地である大谷に本願寺を設立して地盤を固めていくようになりますが、そのほかにも宗派があり、特に本願寺の宗派は天台宗の末寺としての位置に甘んじていたところにいました。

しかし、室町時代の平和が影を潜めていくようになると一気に浄土真宗は飛躍の時を迎えることになるのでした。

蓮如の登場と加賀一向一揆

室町時代も後期に差し掛かってくると本願寺八世である蓮如が本願寺をまとめ上げていくようになります。

蓮如はこれまで細々と築き上げてきた本願寺のネットワークを利用していき、当時の民衆にも親鸞の教えをわかりやすく簡単な言葉で解説した御文を著作して全国に普及。さらに民衆の発展を見て講と呼ばれる組織を作って誰でも平等に本願寺の教えを聴くことができる場を提供していきます。

このことはこれまで細々と活動してきた本願寺の勢いを加速させていくようになり、。室町時代後期に入って徐々に不満を溜めていた民衆の心を掴み、さらには浄土真宗の最大の特徴であるわかりやすい教えと蓮如の工夫を機に全国単位で爆発的に普及。

そして応仁の乱が勃発すると本願寺の本拠地の一つであった越前の吉崎御坊から内紛状態にあった加賀国に進出。守護であった富樫政親を追い出して加賀国を支配。加賀国はここからいわゆる「百姓の持ちたる国」と呼ばれるようになりました。

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