中国史上最初で最後の女帝である「則天武后」ってどんな人?生涯や政治を解説!
仏教を重視した政治
唐の時代には道教を厚く信仰して仏教があまり信仰されていませんでしたが、則天武后は仏教を厚く信仰し自らを弥勒菩薩の生まれ変わりとして全国に寺院を建立していくようになりました。
ちなみに、全国で寺院を建立する制度はのちの日本の国分寺の制度にも応用され、あの奈良の大仏も則天武后の時代の時に建てられた大仏をモデルとしています。
ちなみに、則天武后はかなり苛烈な方法で権力を握りましたが、才能溢れる家臣を重点的に採用したこともあり、農民によって反乱を起こされことはありませんでした。
文字の改変が大好きな則天武后
則天武后の最大の趣味であったのが文字の改変。そうするに新しい文字を作ってそれを使っていくということでした。則天武后は称号や都市の名前などはもちろん、政治の役職なども改変。さらに自らの尊号を天后として皇后のように皇帝の妻に過ぎない位置から皇帝と肩を並べるようになり、今も、そしてこれからも女性が中国大陸を治められら状態へと作り変えたのです。さらに、武則天は漢字の改変も行い、則天文字と呼ばれる新しい漢字を創っており、徳川光圀や本圀寺に使われている「圀」の字などが現在でも残っています。
良くも悪くも則天武后の政治は日本に影響を与えていたのですね。
則天武后の最期
こうして莫大な権力を握って遂には唐に変わって武周を建国した則天武后ですが、彼女といえども寿命には勝つことができず、70歳を過ぎると則天武后は病に伏せるようになります。
これを受け密かに唐復活を狙っていた家臣などが行動を開始。なんとか武周を穏健な形で潰して唐の再興を目指していくことになります。
705年この当時武則天の寵愛を受けていた奸臣が宰相であった張柬之によって殺される事件が発生。これによって則天武后はこれ以上皇帝の位にいると自分の命と地位が危ないと悟り、則天大聖皇帝の尊称を奉ることと、あくまでも皇帝として埋葬することを条件に皇帝の座から退位。これによって則天武后によって無理矢理皇太子となっていた中宗は皇帝として復位し、国号も唐に戻ることになりました。
なんとか権力を保つことに成功した則天武后は安心した様に706年に死去。しかし、皇帝として埋葬されることは反故にされ、皇后として夫である高宗のそばに合葬されました。
則天武后は良くも悪くも中国の歴史を変えた
則天武后は中国の王朝を乗っ取った悪女としてこれまで中国では見られてきましたが、最近では彼女がある程度才能のある人を登用したからこそ玄宗皇帝が活躍できたと言われており、ある程度の評価がされるようになっています。
たしかに、則天武后は悪女だと言われてもおかしくないような所業は犯してはいましたが、それ以上に彼女は政治をうまく回していたことがわかりますね。