日本の歴史明治

度重なる不幸や貧困の中、短くも鮮烈に生きた明治の女流作家「樋口一葉」

哀しすぎる半井桃水との別れ

翌明治25年2月、一葉名義での初めての作品「闇桜」を執筆。新聞小説としては採用されませんでしたが、半井が主宰した雑誌「武蔵野」で発表されました。その後も次々とたま襷」「五月雨」と掲載されていきます。

一葉は、半井と親しく接することで貧しい生活であっても耐えることができましたし、半井はそんな彼女の才能を見抜いてもいました。しかし半井との交際が深まるにつれ、周囲の人間たちは事あるごとに悪評を並べ立て、二人の関係を壊そうとしていたのです。

同年6月、一葉は断腸の思いで半井に別れを告げます。結ばれぬ一葉の思いは、彼女の日記からも伺い知ることができるのですね。

 

「諸事はみな夢、此人恋しと思ふも、いつまでのうつつかは、我に謀られて、我と迷ひの淵に沈む我が身は悲し。とあきらめたることもありき。そもそも思ひ絶へんと思ふが、我が迷ひなれば、殊更に捨つべきかは。冥々の中に宿縁ありて、遂に離れ難き仲ならばかひなし。(中略)悟道を共々にして、兄のごとく妹のごとく、世人の見も知らざる潔白清浄なる行いをして、一生を送らばやと思ふ。」

引用元 「樋口一葉日記原文」より

 

愛しい人と離れ離れにならなければならない哀しさ、そして今までのことはみんな夢であって、恋しいと思う人も全て夢の存在であったのなら、どれだけ救われることだろう。もし許されるのならば、お互い兄のような妹のような存在となり、誰が見ても怪しい仲ではないと思われるような生き方をして、これから一生を過ごしていきたい。

そんな悲痛な一葉の思いが伝わってくるような思いがしますね。

極貧生活の中、次々に作品を発表していく一葉

別れの後、一葉はまるで半井のことを早く忘れようとしているかのように精力的に動いています。図書館へ通うかたわら、萩の舎(すでに助教として復帰していた)での稽古にも精を出し、以前にもまして創作活動に励んでいました。

次兄の虎之助をモデルにしているといわれる小説「うもれ木」は、姉弟子の田辺龍子の紹介で文芸雑誌「都の花」に掲載され、一葉は初めて原稿料を受け取りました。しかし母親のたきは、原稿料を見込んで勝手に借金をしており、次に地方新聞「甲陽新報」に掲載された小説「経つくえ」の原稿料もまた借金の返済に消えていったのです。そういったことの繰り返しで樋口家の生活の苦しさは少しも改善されることはありませんでした。

 

「昨日より家のうちに金といふもの一銭もなし」

「我家貧困日ましにせまりて、今日は何方より金かり出すべき道もなし。母君は只せまりにせまりて、 我が著作の速かならんことをの給い、いでや、いかに力を尽くすとも、世に買人なき時はいかゞはせん」

引用元 「よもぎふ日記」(一葉の日記)より

 

職業小説家になったといっても、このままでは食べることすらままなりません。厳しい現実を目の当たりにした時、物事の価値観を変えることでしか生きていく術はなかったのです。それは彼女の作品にも影響を及ぼすものとなりました。

雑誌「文学界」との出会い

小説「経つくえ」が発表された頃、この作品に注目した人々がいました。雑誌「文学界」に属する若い新進気鋭の同人作家たちでした。作家たちと交わることによって新しい文学の潮流を感じた一葉は、本当に自分の書きたい作品とは何なのか?葛藤を続けることになります。

理想と厳しい現実の狭間で苦しむ一葉。そこで彼女が出した答えは、生活のために商売をすることでした。明治26年8月、現在の台東区にあたる龍泉寺界隈で荒物屋を開業します。たいした売り上げは無かったものの、朝の買い出しさえ終われば、後は自分の自由な時間。そんな時間を使って本を読み漁り、創作のために思考を巡らしたり、この頃が後の奇跡の14ヶ月といわれる創作ラッシュの下地となったのですね。

しかし翌年1月に、近所に同業の店が開店するや売り上げもふるわなくなり、閉店に追い込まれます。しかし次に彼女が思いついたのが、良きパトロンを見つけるということでした。相場師であり実業家でもあった久佐賀義孝と親しくなり、男女の交際抜きの援助を求めたのです。久佐賀は毎月15円という高額の援助を続け、一葉はようやく執筆活動に打ち込めることになりました。

そして奇跡の14ヶ月へ

一念発起して、現在の文京区にあった丸山福山町へ転居した一葉。ここは新開地と呼ばれていて、娼婦街が軒を連ねていたところでした。そんな娼婦たちと言葉を交わし合い、彼女たちの生活を知るに従って、彼女の作風も大きな転機を迎えることになりました。それまでの平安文学風の日記も文体を変え、より叙情的な表現になっていったのです。

短編小説「大つごもり」を「文学界」で発表。貧乏に生まれたがゆえに背負わねばならない葛藤を見事に描いたこの作品は、一葉が味わってきた極貧生活があったからこそ誕生したものだといえるでしょう。

明治28年の23歳のとき、「文学界」に小説「たけくらべ」を発表。翌年1月に至るまで7回に及ぶ連載小説となりました。さらに社会の底辺層の人々の姿を描いた小説「にごりえ」が発表されるや、一葉は賞賛され、文芸界で一躍脚光を浴びることになったのです。

この年には「十三夜」「わかれ道」といった作品も次々に執筆し、この頃が一様にとって執筆活動の絶頂期だったといえるでしょう。樋口家にはその頃から「文学界」の同人作家だけでなく、島崎藤村なども訪れ、あたかも文芸サロンのようだったとのこと。また明治の文豪森鴎外幸田露伴なども、一葉の才能を高く評価していたといいます。

24歳の若さで亡くなる

明治29年2月、雑誌「新文壇」小説「裏紫」を発表。春頃から体調が思わしくなかった一葉は、それでも執筆活動をやめません。泉鏡花幸田露伴らとも会い、刺激を受け、5月には雑誌「文芸倶楽部」「われから」を掲載。同月には手紙の書き方を解説した「通俗書簡文」を上梓。さらに亡くなる5ヶ月前の6月には随筆集「すずろごと」を発表しています。

ついに肺結核の兆候が現れ始めた頃、なんとか父の墓参を済ませることはできましたが、7月以降は日記の執筆も途絶え、8月上旬には「もはや回復は絶望的」という診断が下されました。森鴎外の紹介で、名医といわれた青山胤通の往診も受けるのですが、もはや手の施しようはありませんでした。

雑誌「文学界」の同人作家だった馬場孤蝶が見舞いに訪れた際、一葉はこう言って笑ったそうです。「次にあなたがいらした時には、私は何になっておりましょうか。石にでもなっておりましょうね。」暗に自分が亡くなって墓石になっていると軽口を言っていたわけですね。

同年11月23日、一葉はその短すぎる生涯を閉じました。享年24。築地本願寺で葬儀が営まれ、彼女が残した日記や随筆などは残されて整理され、現在に至っています。彼女の遺言では「焼き捨ててほしい」とされていましたが、やはり自分の気持ちや内面を見られるのが恥ずかしかったからでしょうね。しかし今や貴重な文学的史料となっているのです。

今でも色褪せることがない樋口一葉の作品たち

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その短い生涯の中で、多くの作品を世に残した樋口一葉。才女として生まれ、少女期には古典文学に憧れ、女性ならではの目線でリアリティある人間像を描き切ったその才能は、やはり明治の文豪の一人だといえるでしょう。もちろん一葉の作品は、どこの書店でも手に入りますし、ネットでも販売されています。今まで彼女の作品を知らなかった方も、一度読んでみることをおすすめしますよ。

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明石則実