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昔も今も北辺の守りを担う【第七師団】の歴史とエピソードをご紹介!

第七師団の戦い【ノモンハン事件】

Japanese soldiers creeping in front of wrecked Soviet tanks.jpg
By Dōmei TsushinImage from pokaZuha, original: a image that was distributed by the Dōmei Tsushin on 4 July 1939., パブリック・ドメイン, Link

日露戦争ののち、第一次世界大戦~シベリア出兵~満州事変と、日本を取り巻く環境は刻々と変化し、日本の国力が大きくなるにつれて周辺各国との軋轢も深まっていきました。日本の傀儡国家(意のままに動かせる操り人形のような国)となった満州国西部国境においても、ソ連の圧力は高まっていたのです。

無能な現地指揮官と参謀たちの狭間で…

もともと満州国とモンゴルとの間で、国境線がどこにあるのか互いに主張を譲らず、非常に曖昧なものでした。ソ連はモンゴルを支援していたために双方の軍事的緊張が次第に高まっていましたが、1939年、張鼓峰事件をきっかけにしてついに全面武力衝突に発展してしまったのです。

東京の参謀本部では戦闘の中止と不拡大を指示しますが、現地の関東軍作戦参謀の辻政信は、その指示を握りつぶし、指揮下の第二十三師団は直ちに部隊を派遣して戦闘はますます拡大していきました。

この際に第七師団も増援部隊として戦地へ送られ、そのうち二個連隊がなぜか第二十三師団の指揮下に置かれました。なぜ第七師団としてではなく、わざわざ他師団の指揮下に置いたのか?そこには日本軍特有のメンツや見栄にこだわる弊害があったのです。

第二十三師団の師団長は小松原中将といい、ソ連軍と直接相対していました。そこに第七師団が直接加われば、「せっかく小松原に手柄を立てさせる時なのに、それでは小松原の顔が立たない。」ということになります。戦況をきちんと見極めることよりも、メンツのほうを重んじる精神主義の権化となっていた当時の日本軍の体質がうかがわれるのです。

そんなことで否応なしに配置換えされた第七師団の将兵にとっては、たまったものではありません。全然関係ない師団の手柄のために、自分たちが真っ先に犠牲になることなど不幸以外の何ものでもないわけですから。

責任なき戦場「ノモンハン」

1939年8月、のちに名将ともいわれたジューコフ率いるソ連軍が、圧倒的な戦車群と機械化部隊で大攻勢を仕掛けてきました。日本軍は各所で勇戦するものの拠点を次々に奪われていき、第二十三師団もほぼ全滅してしまいました。もちろん第七師団の二個連隊も同様に全滅します。

圧倒的な戦力差があるにも関わらず、日本軍の参謀や指揮官たちは、部下に無謀な作戦を強制し、本来なら2千人いるはずの連隊が100人に減ってもなお突撃を命じました。また辻政信ら高級参謀は、独断で退却してきた部隊指揮官に対して、「軍令違反である」として裁判も何もなしに次々に自決を強制していました。

 

「敵がどれだけ強くても、精神的に負けなければ負けたことにはならない。」

 

これはノモンハンの悲劇の元凶ともいえる辻政信の言葉です。人の命がかかった戦争を、まるで卓上でゲームをするかのように考えているあたり、反省も責任も何も感じていないことが透けて見えるのですね。

この時に第七師団第二十六連隊長だった須見大佐は、このあまりに無謀な日本軍の戦いぶりをこう表現したそう。「元亀天正の装備」だと。「元亀天正」とは織田信長が生きていた戦国時代の年号のことで、その程度のレベルの低い装備をもってソ連の近代的陸軍と対戦させられ、結果として敗れました。その責任は生き残った何人かの部隊長にかぶせられたということになりますね。

ノモンハン事件は結果的に停戦という形で幕が引かれました。しかし、作戦を指導したはずの参謀たちは何の罰則も受けずに、その後も日本軍の中枢に居座り続けました。逆にノモンハンの敗戦を知る下士官たちが帰郷しても「絶対に事実を漏らすな」と監視の目が付けられ、事あるごとに遠方の激戦地へ送られたそうです。

結局はノモンハンでの手痛い敗戦を、何の反省も責任もないまま生かすことができなかったわけで、そこに失敗の理由があると思うのですね。

第七師団の戦い【太平洋戦争】

太平洋戦争が始まった頃、第七師団は根拠地の北海道に位置していました。ようやく本来の任務である北辺の守備に就いたわけですが、逼迫していく戦況の下、悲惨な運命をたどる部隊もありました。それが第七師団第二十八連隊。通称「一木支隊」だったのです。

一木支隊、南海に散る

1942年6月、日本海軍の痛恨の敗北に終わったミッドウェー海戦ののち、本来ならミッドウェー島を占領した後に駐屯するはずだった一木支隊(第二十八連隊)の存在が注目されたのは8月に入ってからでした。

ちょうどこの頃に最果ての南の島「ガダルカナル島」に米軍が上陸し、飛行場を奪われてしまったために取り返す必要があると判断されたため、その役目を一木清直大佐率いる約2千の兵力に委ねようとしたのです。しかし、ここで日本軍側は致命的なミスを犯してしまいました。曖昧な情報を基に推測で「敵はすでに主力が撤退し、2千程度の戦力しか島にいない」と判断してしまったのでした。現実的に島にいた米軍部隊は実に1万を超えていたといいます。

しかも輸送上の制限から、わずか2千あまりしかいない兵力を二つに分けてしまい、絶対にしてはいけない「兵力の逐次投入」という愚を犯したのです。

一木大佐率いる第一梯団917名は、島へ上陸するやさっそく作戦行動に移ります。少数の偵察隊を出しますが、これが米軍の待ち伏せに遭って全滅。本来であれば、そういった事実を受けてもっと緻密な行動を取るべきでしたが、一木大佐はそうはせず、ますます攻撃精神を発揮して、あろうことか強固な米軍防御陣地へ向けて正面攻撃を仕掛けたのでした。

夜半から始まった戦いの結果は惨憺たるものになりました。圧倒的な火力の前に一木支隊はあっという間に壊滅。翌日の夕方までに戦闘は終了しますが、一木大佐も自決し、攻撃は完全な失敗に終わったのです。

戦局の楽観的観測と、兵力差を度外視した作戦計画、そしてなけなしの戦力の逐次投入といった愚を犯した日本軍は、ノモンハンの悲劇から何も学んではいなかったのでした。

波乱の第七師団、北海道で終戦を迎える

その後、あらゆる師団が南方の激戦地へ送られていく中、太平洋戦争を通じて第七師団は北海道を動くことはありませんでした。アリューシャン列島~千島経由で連合軍が進攻してくる可能性があったため、それに備えてのことだったのです。

終戦間際に、樺太(からふと)までソ連軍が進攻していたこともあり、もし仮に太平洋戦争が長引いていれば、北海道へ上陸してきたソ連軍と再び相まみえていたのかも知れませんが、実際にそうはなりませんでした。

第七師団は終戦と当時に武装解除し解体されますが、第七師団の波乱の歴史を展示した「北鎮記念館」では多くの資料を閲覧することができます。終戦時に焼却されるはずだった機密文書も現存しており、貴重な歴史的史料だといっても良いでしょう。

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