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ソビエト連邦の立て直しのために実行された「ペレストロイカ」をわかりやすく解説!

チェルノブイリ原発事故とグラスノスチ

ゴルバチョフが書記長に就任して1年ほど経った1986年4月26日、今のウクライナの首都であるキエフの北方にあったチェルノブイリ原子力発電所で大規模な事故が発生しました。チェルノブイリ原発4号機の炉心がメルトダウンし、大量の放射性物質が大気中に放出されたのです。

チェルノブイリで事故が発生した直後、事故情報はゴルバチョフのもとに届いていませんでした。正確な情報を得られないまま、ゴルバチョフ政権の事故対応は後手にまわり、国際的な非難を浴びます。また、国民にも事故の情報は知らされませんでした。

こうした経験を踏まえ、ゴルバチョフは「グラスノスチ」(情報公開)をより徹底させました。情報公開は歴史の見直しにも踏み込みます。反体制とみなされ粛清された人々の名誉回復も進められました。

制限主権論の放棄と新思考外交

ゴルバチョフ以前のソ連が行ってきた外交についての考え方を制限主権論といいます。社会主義国全体の利益を守るためには、各国の主権が制限されてもやむを得ないとする考え方でした。

ソ連は制限主権論にもとづき、チェコスロヴァキアで起きた「プラハの春」などの民主化運動に対し、ソ連などのワルシャワ条約機構軍を派遣して弾圧しました。

ゴルバチョフは制限主権論を放棄し、新思考外交へと軸足を移します。ゴルバチョフは西側との共存や他の社会主義国とソ連との関係を対等なものに改めました。

こうした外交方針の転換により、アメリカとの関係は急速に改善。1989年のマルタ会談で冷戦の終結が宣言されました。その一方、東欧諸国では民主化とソ連離れが急速に進行します。

ペレストロイカ失敗によりソビエト連邦は崩壊した

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ゴルバチョフの肝いりで始められたペレストロイカは、保守派の抵抗により十分な成果をあげられませんでした。その一方で、東欧諸国で民主化が進行し、ソ連の国際的威信は低下。さらに、バルト三国の独立宣言が出されるなどソビエト連邦は急速に瓦解します。これに対し、保守派がクーデタを決行しますがエリツィンらによって阻まれました。ペレストロイカの失敗により、ソビエト連邦は地上から姿を消したのです。

相次ぐ東欧諸国の革命とバルト三国の独立

1989年、ソ連が制限主権論を放棄し各国の主権を尊重するとしたことから、東欧諸国では民主化の動きが急速に進展しました。

ポーランドでは「連帯」が合法化され、非共産党政権が発足します。東ドイツではホネカーの政権が崩壊し、ベルリンの壁が崩壊しました。チェコスロヴァキアでは連日のデモにより非共産党政権が成立したビロード革命が起きます。ルーマニアでは独裁者チャウシェスク大統領夫妻が処刑されました。こうして、1989年の1年間に東欧諸国で相次いだ革命を東欧革命といいます。

1990年、ペレストロイカ以後に独立志向を高めていたバルト三国が相次いで独立を宣言。ソビエト連邦からの離脱を宣言したのです。ゴルバチョフはバルト三国の自治権拡大と引き換えに連邦内に残るよう交渉を開始しました。

保守派によるクーデタ失敗とエリツィンの台頭

ゴルバチョフのバルト三国への姿勢などに危機感を募らせたのがソ連国内の保守派でした。共産党内部の保守派はヤナーエフ副大統領らを担ぎ上げ、クーデタを起こします。

保守派がクーデタを起こした理由は、ゴルバチョフの改革が共産党による一党独裁の否定によってソ連解体の引き金となると考えたからです。

ゴルバチョフがバルト三国に対して大幅に譲歩した新連邦条約を結ぼうとしていると知った保守派はクリミア半島にいたゴルバチョフを軟禁。保守派はゴルバチョフが健康上の理由で辞任したとしてヤナーエフを大統領代行とする人事を発表します。

しかし、ロシア共和国(ソビエト連邦内の共和国)の代表だったエリツィンがモスクワ市民とともに立ち上がり、保守派に対抗しました。軍の大半もエリツィンを指示したため、クーデタは失敗に終わります。

ゴルバチョフのソ連大統領辞任と独立国家共同体の成立

保守派のクーデタは失敗し、ゴルバチョフは救出されました。しかし、ゴルバチョフの力は事態を鎮静化させたエリツィンに及ばないことが証明されてしまい、ゴルバチョフやソビエト連邦の威信は急速に低下しました。

1991年8月24日、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任。12月にはソビエト連邦大統領も辞任します。こうして、ソビエト社会主義共和国連邦は69年の歴史に幕を下ろしました。

かわって主導権を握ったのがエリツィンです。エリツィンはウクライナ・ベラルーシの首脳と会談し、ソ連の解体と独立国家共同体(CIS)の成立を宣言。バルト三国以外の旧ソビエト連邦諸国が共同体に参加しました。

エリツィンは急速な資本主義化を強行したため、ロシアは経済的な混乱状態に陥ります。ロシアの政情が安定化するのは2000年のプーチンの登場を待たねばなりませんでした。

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