4.実業家渋沢栄一の誕生
銀行の資金を使いさまざまな企業の創設に携わります。明治6(1873)年に王子製紙を創業しました。現在の東京証券取引所や東京ガス、東京海上日動火災保険、東洋紡績、キリンビールにサッポロビールなど、さまざまなジャンルで500以上もの企業を興しました。また、更なる事業の発展による人材養成のため作られた東京商法講習所(現:一橋大学)の経営をし、女子教育にも関心を寄せ日本女子大学校(現:日本女子大学)の創設委員としても活躍しています。
4-1多くの企業と学校の設立に関わる栄一
この時期の栄一は、民間の立場から企業支援を中心に活躍しています。会社設立の資金援助をしたり、株主になったり、重役として名前を貸すこともしました。もちろん、企業への助言などもしていたようです。
日本の資本主義発展のためには鉄道が必要だと考え、間接鉄道の敷設や施設鐡道の敷設にも尽力しています。栄一や井上馨らが当時独占状態にあった三菱汽船に対抗し共同運輸会社を発足。両者は後に、日本郵船会社となります。
商業会議所の中心として活躍した栄一は、その後、綿糸の輸出税や綿花の輸入税の廃止運動に始まり、日清戦争後の軍備拡張の反対運動など、商工業者の社会的向上を目指しました。これらの運動は大正デモクラシー期に、商工業者を基盤とする政党が内閣を組織できるまでの存在となったようです。
産業資本を確立した栄一は財閥思想を嫌い、同時期の財界人で有名な岩崎弥太郎(三菱財閥を築く)などとは違い、自分の縁者は決して関連する会社には入社させなかったとか。
4-2渋沢栄一の晩年
栄一は大正6(1916)年に77歳で、ほとんどの職を辞して実業界を引退しました。これまでの経験を活かし、教育や医療、福祉に貢献しています。弱気もの、病めるもの、貧しきものも、社会的な恩恵を受けるべきという考え方を持っており、生涯を終える直前には「救護法」を実施するよう大蔵大臣や内務大臣に直訴したようです。
世界各国から移民がなだれ込んだアメリカで、日本人移民を締め出す法律が成立し、日米の関係が悪化した時は、日本人形とアメリカの人形(青い目の人形)を交換し、アメリカからの人形を小学校に送っています。
日本の近代産業の発展に尽力した栄一は、昭和6(1931)年に91歳で永眠しました。この世を去る直前まで日本の国のために働いた栄一の功績をねぎらおうとする人々で、自宅から斎場までの沿道に葬列ができました。みんなに愛されながら、人生を終えました。
日本資本主義の父渋沢栄一は、日本が誇る大企業の生みの親
渋沢栄一は、多くの企業を設立しました。彼の生まれ故郷の埼玉県深谷市には「渋沢栄一記念館」、東京都北区にも「渋沢資料館」があり、彼の功績を今に伝えています。新一万円札の肖像になる予定の、「渋沢栄一」を知るために訪れてみませんか?