大正日本の歴史明治

日本経済史を語るなら忘れられない!新一万円札の肖像「渋沢栄一」とは?

2-3「商法会所」が大当たり!大蔵省の役人になる栄一

商法会所は、藩の資金を藩内の有力な商人に貸し、力と資金を使った大規模な商売をさせ、儲けの中から利益の一部を預けるというものです。これは、商社と銀行の投資事業が組み合わさったもの。もちろん、商法会所は大当たりし大繁盛しました。

そんな栄一に新政府のために働くよう命がくだりました。ヨーロッパでの国際知識があり、商法会所の実績が認められたことからです。せっかく商法会所が軌道にのり面白くなっていたのに…。断ろうとしましたが、静岡藩が朝廷の意志に反するとどうなるかわからない、ヨーロッパを見てきた知識と経営能力を新政府のために役立ててほしいといわれたからでした。

新政府には、大久保利通や伊藤博文、井上馨といった維新のヒーローたちが、役人として政策に関わるために集まっていました。栄一は「民部省(現:財務省と金融庁、以前の大蔵省)」に入省しています。栄一を新政府に招いたのは、早稲田大学の創設者大隈重信(おおくましげのぶ)でした。

大隈重信が栄一を起用するのには、周囲の猛反対があり大変な苦労でした。特に民部省の人々は強烈に反発しています。「上司に元幕臣を置くなんてとんでもない!渋沢なんて御免だ!」と抗議したようです。でも、大隈重信は「まぁ、見てなさい。」と一言いい、栄一を新政府に迎えました。栄一の働きぶりは見事なもので、半年もすれば悪くいうものは一人としておらず、租税制度の改革や度量衡の改正をはじめ、鉄道や諸官庁の設置も行いました。銀行設立を考えていた栄一は、国立銀行条例の制定もしています。

3.明治になっても人々の暮らしは豊かにならず

image by PIXTA / 48362085

パリで見た文化的で豊かな国民の暮らしぶりを見た栄一の悩みは、明治になってもなかなか人々の暮らしが裕福にならないことでした。このままでは、日本は国際的に弱い立場から脱出できず、いつまでもおいてきぼりなってしまうからです。

3-1民部省を辞める決意をする栄一

民部省に入所する際に大隈重信から「前例も手本もない日本のために、仕事をしてもらいたい。」と説得され入省を決めましたが、このまま役所にいても本当にしたかった国作りは叶わないと思った栄一は、明治6(1873)年に3年半で省を去ることを決めました。混乱していた明治の始まりにおいて、問題を整理しながら改革して行くという働き方で200もの功績をあげました

建白(提案)に次ぐ建白に、省内では栄一のことを「建白魔」と呼ぶようになっていました。政治よりも自分には商売から国作りをする方があっていると思ったようです。まず、江戸時代から金融業で名を馳せていた、三井組と小野組から出資を受け、国立銀行(現:みずほ銀行)第1号を立ち上げました。「第一国立銀行」といい、事実上の頭取となりました。(国立銀行は、国が運営する銀行ではなく、国の法律に従って「銀行券」を発行する民間企業です。)

1階と2階が洋風建築で、その上に天守閣を備えた第一国立銀行のモダンな建物は、文明開化のシンボルとなっていました。栄一は、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行を設立する手助けをしています。

3-2不安定な国の状態に危機を迎える国立銀行

当時の国立銀行は、銀行券(兌換紙幣)を購入すればその分を金と交換できる事業もしていました。開始に当たり膨大な金を用意していましたが、佐賀の元武士が新政府に不満を持ち反乱を起こした「佐賀の乱」や「台湾出兵」など立て続けの戦争で物価が急上昇し金の価格も跳ね上がったのです。

人々の間では大儲けしたいと思う成金が、「銀行券を金に変えるなら今だ!」と押し寄せたのです。金庫の中に用意していた金は空っぽ。しかも、国立銀行の条例に「銀行券と金はいつでも交換できる」と定めていたのです。完全な敗北でした。挙句にパトロンだった小野組が経営難に陥ったのです。

簡単にめげないのが栄一。「銀行券を金と交換しなくてもよいと法律で定めてほしい」と、当時の民部省紙幣頭の得能良助(とくのうりょうすけ)に頼みます。「銀行券は金と交換できるから価値があるのに、銀行の信用保証だけの券では価値が見いだせないのでは?紙くず同然だ。」といわれる始末。先見の目があった栄一は、「そうはならない。この決断は、きっと国の発展には欠かせません。」と断言しました。

3-3兌換紙幣と不換紙幣

金と交換義務があるこれまでの兌換紙幣(だかんしへい)を金と交換を約束しない不換紙幣(ふかんしへい)に変えることは、相当のリスクがありました。ですが、この決断は功を奏し、金がある分しか発行できない兌換紙幣に対し、金の量に左右されることなく発行できる不換紙幣は数に限りなく発行することができるため、銀行が設立しやすくなったのです。

明治9(1876)年の条例改定から、国立銀行に設立ブームが巻き起こります。年金として米や現金をもらっていた元武士たちは、国の財政圧迫により金禄公債を発行しその利息のみ支払われていました。持っていても意味のない、金禄公債を集めて銀行が作られたのです。これも栄一の進言から始まりました。

新しい銀行が創建するにつれ、融資を受ける企業が増え日本の経済が活性化します。次第に国が豊かになり、人々の生活も安定しました。でも、陰には小野組という犠牲もあったのです。

3-4銀行の犠牲となった小野組

国立銀行設立の時に出資をしてくれた「小野組」が、この時代の犠牲となったのです。小野組は政府からの巨額な公金を運用していました。財政難に陥った政府は、公金を返せと小野組に迫ったのです。小野組が破たんすることは明確でした。

第一国立銀行の、融資における大切なお客様だった小野組の焦げ付きは、銀行にも影響を及ぼします。回収できなければ銀行も倒産してしまうからです。小野組の責任者である古川市兵衛(ふるかわいちべえ)に、栄一は融資金の返済を懇願します。市兵衛は自分の個人資産まで差し出して返済してくれました。この件には、さすがの栄一も涙したとか。

小野組は倒産しましたが、古川市兵衛は復活します。独立して鉱山経営に乗り出したのです。その時には、栄一から巨額の融資を受け、多くの鉱山を経営し「鉱山王」と呼ばれるほどの存在にまでなりました。この後、市兵衛は古川グループの基礎を築いています。現在ある古河機械金属や富士通などに通じているのです。でも、明治時代の後期に日本初となる公害事件を起こしました。これは後に、「足尾鉱毒事件」に繋がります。

次のページを読む
1 2 3
Share: