古墳時代前期の代表的な古墳(2)茶臼山古墳
中山茶臼山古墳(なかやまちゃうすやまこふん)は岡山県岡山市にある前方後円墳です。
茶臼山古墳とは茶臼(茶葉をひく石臼)に似た形をした前方後円墳の呼び名のこと。「茶臼山古墳」と呼ばれる古墳は全国各地にたくさんあり、その多くが国や地域の史跡に指定されています。
中でもこの中山茶臼山古墳は非常に美しい状態で残っている古墳として有名。岡山の観光名所にもなっています。
長さおよそ120メートル、後円部の直径およそ80メートル、高さは12メートルとこちらも大型。古墳時代前期を代表する古墳として注目を集めています。
古墳時代最盛期!大きさや形にも変化が:古墳時代中期
古墳時代中期に差し掛かると、古墳は全国各地でたくさん造られるようになります。
構築技術も発達し、洗練された形に加え大きさもアップ。周囲に堀を巡らせるタイプも造られるようになっていきました。近畿地方だけでなく全国各地に大きな集落が広がって、権力者が治めるようになっていったのでしょう。位の高い者たちはこぞって大きな古墳を築いていきました。
古墳の代名詞にもなっている仁徳天皇陵(大仙陵古墳)も、この時代に築かれたものと考えられています。
古墳時代中期の代表的な古墳(1)大仙陵古墳
大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)は大阪府堺市にある、日本最大クラスの前方後円墳です。
誰の墓か明らかにはなっていませんが、宮内庁の発表によれば第16代仁徳天皇の陵(百舌鳥耳原中陵)であるとのこと。一般には仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)という名称で広く知られています。
全長約486メートル、後円部径は約249メートルと超巨大。堀の周囲には遊歩道が設置されていますが、その距離およそ2.8㎞と、速足でも一周小一時間ほど。周囲には手つかずの自然が残されており、のんびりと散策する人の姿も数多く見られます。
古墳時代中期の代表的な古墳(2)誉田御廟山古墳
誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)は大阪府羽曳野市にある前方後円墳です。
誰の墓かは明らかになっていませんが、宮内庁によれば第15代応神天皇の陵(惠我藻伏崗陵)とのこと。
全長はおよそ425メートル、後円部の直径はおよそ250メートル。後円部の高さは35メートルと、大仙陵古墳に次ぐ大きさと言われる巨大古墳。周囲を囲む堀は二重堀になっていてかなりの幅と深さがあり、全体を見るとまるで巨大な山城のような形状をしています。
周辺一帯には80基を超える大小さまざまな古墳が点在しており、誉田御廟山古墳を中心として「古市古墳群」と呼ばれる古墳群を形成。誉田御廟山古墳の中を見学することはできませんが、拝所が設けられていてお参りは可能です。
シンプル&小型化~そして終焉へ:古墳時代後期
古墳時代も後期に差し掛かると、大型のものより比較的小規模な古墳が数多くみられるようになります。
形態も、ひとつの大きな古墳を中心としたものより、小さな古墳がたくさん集まって形成される群集墳タイプの古墳が増えていったようです。また、横穴式の石室を持つ古墳も多数造られるようになりました。巨石で有名な石舞台古墳も後期に造られたものと考えられています。
このころから、権力者のためだけのものではなく、多少身分の低い人たちも古墳を作るようになっていったのではないか、との考察も。また、地方の権力者たちが個々に国を形成するのではなく、ヤマト王権が全国統一に至るほどの力を確立したのではないか、との見方も。7世紀半ば、大化の改新が成し遂げられ、朝廷を中心とした律令国家がスタート。各地の権力者が古墳を築いて力を誇示する時代は終焉の時を迎えるのです。
古墳時代後期の代表的な古墳(1)高松塚古墳
高松塚古墳(たかまつづかこふん)は奈良県にある国営飛鳥歴史公園内に残る二段式の円墳。裾野の直径はおよそ23メートル、7世紀末頃に築かれた古墳と考えられています。
1972年、石室から極彩色の壁画が発見されたことで、その名が知られるようになりました。いくつかの壁画が発見されていますが、特に有名なのは西壁の女子群像でしょう。4人の女性の立ち姿を描いたその絵は1500年もの時を経てなお鮮やかな色彩を保っていたため、発見当初から大変な話題となりました。
古墳自体は、公園の一角に静かに佇んでいます。土を盛って作った墳墓としてはかなりの大きさがありますが、前方後円墳を想像して足を運ぶと少々拍子抜けするかもしれません。ただ、間近で見ると、明らかに前方後円墳とは異なる雰囲気から、古墳の役割や時代背景が変わったのだと肌で感じることができそうです。