世界の不思議巡りの旅へ~遺跡からミステリースポットまで一挙紹介!
誰が?何のために?世界の不思議な遺跡三選
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世界中に残されている遺跡の多くは、城町の痕跡であったり、信仰の対象であったり、当時の人の暮らしぶりがわかるものがほとんどです。しかし中には、何のために、どうやって造られたものなのか分からないものも。まずは、そんなミステリアスな遺跡を厳選3か所、ご紹介します。
謎の石像たちが静かに暮らす島・イースター島
イースター島は南米チリの領土ですが、チリから3000㎞以上離れた南太平洋上にぽつんと存在しています。
周囲に有人島はなく、まさに絶海の孤島。今からおよそ250年前の1772年、オランダ海軍のヤコブ・ロッフェーンという人がこの島に上陸します。発見した日が復活祭(イースター)だったため、イースター島と命名された不思議な島。上陸した彼らが目にしたものは、たくさんの巨大な石像と、それを拝む島の人々の姿でした。
イースター島には古くから人の暮らしがあったと考えられていますが、文字による記録がないため、ロッフェーンによる発見以前の詳細は謎に包まれています。人々はどこからやってきて、いつ頃から暮らしているのか、そしてあの巨大な石像「モアイ像」は何者なのか……。
モアイ像の大きさは3~4m、20トンほどのものが多いですが、中には20m近い巨大なものもあります。横に倒れたものや半ば土に埋まっているものを含めるとその数およそ900体。重機も何もない時代にどのようにして建てたのか、超古代文明説や宇宙人説など様々な説がささやかれてきました。
謎はすべて解明されたわけではありませんが、モアイ像の台座の下から人の骨が発見されたことから、近年では「モアイ像はお墓である」という説が有力になっています。
乾いた大地に描かれた巨大芸術・ナスカの地上絵
ナスカの地上絵は、南米ペルーの南海岸地方に南北に細長くのびる盆地の中に点在しています。
この一帯は乾燥地帯。褐色の岩や土が作り出す乾いた大地に造られた、幅1m~2m、深さ20~30㎝ほどの「わずかな溝」が地上絵の正体です。近くで見ても、地表の土が少しでこぼこしているかな、という程度で、絵が描かれているなど想像もつきません。しかし上空から見ると、このわずかな土の変化が、褐色の地表に巨大な絵を浮かび上がらせるのです。
発見されたのは1939年6月、アメリカの考古学者・ポール・コソックによって見いだされ、その後様々な国の人々によって研究や保護活動が行われてきました。
近年の研究では、絵は紀元前1世紀から紀元後7世紀ほどの間に、古代インカ人によって描かれたと考えられています。この地域はほとんど雨が降らないため、気象の影響を受けず、2000年以上残っていたというのです。しかし、このような巨大な絵を古代の人々がどうやって描いたのか具体的な方法や、そもそも何の目的で描いたのかなど、まだまだ多くの謎が残されています。
絵のモチーフは、ハチドリや蜘蛛、尾を巻いたサルなど、動物を描いたものが有名ですが、、何の絵かわかって名前がついているものはおよそ30種類ほど。図形や幾何学模様なども含めると700以上発見されています。有名なハチドリは約96m、蜘蛛は46m、ペリカンは285mとどれも巨大。現在では地上絵周辺地域は立ち入りが制限されているため、セスナ機による上空からの観光が人気です。
円形に並ぶ巨石群の謎・ストーンヘンジ
ストーンヘンジ(Stonehenge)とは、ロンドンの西方およそ200㎞の場所にある、巨石によるストーンサークル(環状に石を配置した古代の遺跡)です。
直径100mほどの堀の内側に、高さ4~5mの縦長の石30個が円形に並べられ、それよりさらに内側に、さらに大きな石によって門のような形が作られています。7mはあるであろう巨石の上に横石が置かれているのです。使われている石の数は80余り。周辺は風吹きすさぶ平原で、このような巨石が採れる場所は近くにはありません。
数トンから数十トンあると思われるそれらの石をどのようにして縦にしたのか、横石をどのように置いたのか、それ以前にそもそも何のために造られたものなのか……。中世の人々は、ストーンヘンジは魔法使いが作ったものだと考えていました。
このストーンサークルは、紀元前3000年頃~紀元前2000年頃に、段階的に造られたものという説が有力ですが、その目的については、天文台、暦、信仰のための施設、墓所、礼拝堂、UFOの発着所など様々な説があり、いまだ結論は出ていません。近年の研究では、太陽崇拝に関連する施設だったのでは、という説が有力のようです。
ある日突然住人が消えた?謎多き世界の都市遺跡三選
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都市遺跡はその時代の人々の暮らしの様子などを知ることができる貴重な歴史史料ですが、中には、どのような民族が暮らしていたのかよくわかっていないものもあります。広大な街の痕跡は現代人に何を語り掛けるのでしょうか。そんな謎に包まれた有名な都市遺跡を3つ、ご紹介します。
名前の由来は「死の丘」から・モヘンジョダロ
モヘンジョダロ(Moenjodaro)は四大文明のひとつにも数えられている「インダス文明」の都市遺跡と考えられています。場所は現在のパキスタン。インダス川中流~下流に位置しています。
発見されたのは1922年、インド人の考古学者による発掘調査で存在が明らかになりました。前3000年~前2000年に栄えた都市と考えられていますが、その全容はまだ明らかになっていません。モヘンジョダロとは「死の丘」を意味する現地の言葉。20世紀に入るまで立ち入るべきではない場所とされていたようです。
乾燥した丘陵地帯に、レンガを積み上げて碁盤の目のように整然と整備された区画が作られ、3万人以上もの人々の暮らしがあったとみられています。土器や青銅器なども多数見つかっており、耕作や牧畜、水道などインフラの痕跡も。しかしある時、短期間で文明は消滅し、都市の痕跡だけが残されました。洪水など自然災害が影響しているのではないかと考えられています。
たくさんの遺構が残されてはいますが、地形や気象の関係から風化が著しく、調査研究が思うように進まない、という問題を抱えているのだそうです。
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地中奥深く底に埋まった悲劇の都市・ポンペイ
ポンペイはイタリア南部の都市・ナポリ近郊に1900年ほど前まであった古代都市です。ナポリのすぐ近くにあるヴェスヴィオ山の噴火によって紀元後79年、発生した火砕流が流れ込み、地中に埋もれた都市として知られています。
ポンペイの地下に都市が埋まっていることは、古くから何となく知られてはいたそうですが、18世紀半ばに改めて発見され、以後、長期間にわたって発掘調査が続けられてきました。
この地一帯には、紀元前7世紀頃には既に大きな集落があり、万人以上の人々が暮らしていたと考えられています。公衆浴場や劇場と思われる施設跡や、壁画など美術品が多数出土。長い間地中に埋まっていたため、それらのほとんどが非常に良好な状態で見つかっています。街中には逃げ遅れて地面に倒れこんだ人々の姿も。火砕流はおそらく20時間足らずでポンペイを飲み込んだといわれています。
火砕流に飲み込まれながら、壁画などがきれいな状態で残されているポンペイ。現在でも様々な調査発掘が行われています。