作者の兼好法師ってどんな人?
まず最初に、作者である兼好法師について見ていきましょう。もちろん、「法師」ですからお坊さんなのですが、いわゆる伝道師的な仏教者という意味での活躍は、歴史上特に残っていません。いやいや、しかし実はこのおじさん、文章力は抜群で、性格も一筋縄ではいかないクセの強い方だったようです。
1.若き日のエリート人生
兼好法師は、本名を卜部兼好(うらべかねよし)(「卜」は、日テレの水卜アナの「卜」ですね)と言い、宮廷に仕える吉田神社の神職の子として生まれました。卜部氏は名門であったため、若い頃の兼好がどんな心持ちだったのか定かではないものの、それなりのエリート意識を持ち、宮廷の中で神職としての務めを果たすべく邁進していたものと思われます。少なくとも、「つれづれなるままに…」なんて呑気なことは言っていなかったでしょう。歌人としても有名で、多くの和歌集に入集しています。
2.天皇との別れ…そして俗世からの離脱
「俗世で身に良くないことが起こると、世を儚んで出家する」…これは日本史ではよくあるパターンなのですが、立身出世を図るに際し、心の支えであり、仕事面でも支えてくれていた後二条天皇が崩御(死去)してしまったのですね。
そこで兼好、30歳の頃には出家をし、俗世を離れる決意をすることに。いわば「兼好法師」の誕生ですね。わたしたちがよく知っている「兼好法師」は、この出家以後のお坊さん姿の人のことです。
3.徒然草の執筆。悠々自適の生活?
出家した兼好法師は、隠遁の生活に入ります。とは申せ完全に外界との関係を断ち切ったわけではなく、例えば当時の武士たちとも交流を持つなど、実態は「中途半端な隠遁」状態であったようです。そりゃそうですよね。今だって、完全に社会から隔絶されて生きることなど、ほどんど不可能ですから。
そんなこんなで生まれた随筆が、「徒然草」です。また、いったいどうやって収入を得ていたのか?と思う向きもあるかもしれませんが、京都郊外に庵を建て、そこで当時の有力者(足利幕府の要人)などに接近し、彼らの歌の講師をしていたとも言われています。その他にも土地からの収入があり、案外豊かであったかもしれません。悠々自適な隠遁生活を送ったのでしょう。
兼好法師の本領発揮?徒然草の名言(迷言?)3選
それでは、実際に徒然草の段の中から、筆者・兼好法師が醸し出す味わい深い場面を3つほどピックアップしてお届けします!
1.友にしてはいけない人物について
まず、こちらから。第117段です。
「友にしてはいけない人物」について述べているのですが、
「身分の高い人、若い人、身体の強い人、飲酒をする人、勇猛な武士、嘘をつく人、欲深い人」と兼好は挙げています。
さて、最後の「嘘をつく人」「欲が深い人」というのはわかりますが、他は?ですよね。
兼好によれば、身分の高い人や強い人などは、弱い人の心がわからないからだ、ということのようです。少しひねくれた見方のような気もしますが、この辺に兼好法師らしさが出ています。
2.昔のものは立派である
次はこちらです。第22段。
「昔のものは立派だが、最近のものは下品になってきているように見える」
具体的には…と、兼好は挙げていきます。木工職人の器、手紙の言葉遣い…と。しかしこれ、今でもよく耳にする「昔は良かった」系のセリフでもあります。既に鎌倉時代からこんなことが言われていたのですね。しかも兼好法師までもが。
懐古主義というのは、いつの時代も変わらないもののようです。