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実は西郷以上の影響力?大久保利通が現代に遺したモノ3選

明治維新の三傑のひとり、大久保利通。あの西郷隆盛と同じ薩摩出身で、西郷の盟友としても有名ですよね。もっとも、西郷と比べるといまひとつ人気がありません。しかし、現代に及ぼした影響という意味では、西郷と同じかそれ以上のものがあるのです。それでは、そんな大久保利通についてみていきましょう。

まずはおさらい!大久保利通の生涯とは?西郷より人気がないのはなぜ?

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まずは、大久保利通の生涯を振り返ってみましょう。幕末から明治へと、激動の時代を生きた大久保利通。いったい彼はどのような生涯を送ったのでしょう?そして、西郷隆盛よりも人気がないのはなぜなのでしょう?

1.不遇の青年時代。しかし国父に接近して出世

大久保利通は、1830年に薩摩国・鹿児島で生まれました。青年時代の名は正助(しょうすけ)。正助は幼いころから頭が良く、西郷吉之助(後の隆盛)ら周囲のなかでも一歩出た存在だったようです。しかし、その後父が藩の騒動に巻き込まれ遠島処分を受けるなど、決して楽とは言えない青年時代を送りました。大久保は後に政府の要職に就いた際も、我慢強く事を進めていきましたが、この「我慢強さ」はこの頃に培われたものなのかもしれません。

やがて正助は、当時の国父(国を実質治めていた人物)・島津久光に接近する機会を得ます。そして、その後は水を得た魚のように活躍を始めるのです。

2.討幕、そして明治新政府のリーダーとして手腕を発揮

この頃大久保は、名を一蔵(いちぞう)、さらに利通と改め、西郷らとともに藩の政事担当者として各藩や岩倉具視など公家との折衝を行うなど、京都を舞台に活発に動きます。そして討幕に舵を切った薩摩は長州と密約を結び、1867年の江戸幕府滅亡へとつながっていきました。

大久保、このとき37歳。名実ともに薩摩を代表する人物のひとりになっていました。そして、その後は明治新政府の中心人物として、富国強兵※1や殖産興業※2政策を推進。わずかな間に、日本を西洋諸国と肩を並べる文明国にするべくその手腕をいかんなく発揮するのです。

※1 富国強兵…経済を富ませ、軍事力を高めていくこと。

※2 殖産興業…新しい技術を輸入し、物資などの生産をより活発化させていくこと。

3.西郷との別れ、そして…

1871年(明治4年)、大久保は西洋諸国の実情を肌で知るため、岩倉具視らと外遊の途につきます。アメリカ、イギリス、ドイツ…。西洋文明の威力に圧倒された大久保ですが、帰国後に待っていたのは盟友・西郷隆盛との決別でした。お隣の韓国に対する政策をめぐって、関与せず内政を充実させるべきと考える大久保と、韓国に関与すべきと考える西郷とで折り合いがつかなかったのです(「征韓論※3」をめぐる論争)。

そして西郷は鹿児島に下野し、やがて起こった西南戦争で大久保は政府軍を指揮、西郷の自決で戦争は終結しました。今も大久保の評判が必ずしも良くないのは、こういった「西郷どんを死に追いやった」というイメージが背景にあるからです。

さあここから…!というそんなとき、大久保は刺客に襲われ東京・紀尾井坂で命を落とします。享年49。明治日本をつくった大黒柱の、一瞬の最期でした。

 

※3 征韓論…武力で韓国を開国させるべきという論調。

大久保が現代に遺したモノとは?

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さて、そんな大久保が明治政府の中枢で改革し、現代にまで遺したものを紹介します。大久保はわずか10年の間に、明治日本の骨格になる制度設計を次々と行いました。そしてそのなかには、今のわたしたちにとって非常に身近なものも含まれています。

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