まずは参勤交代についておさらい!
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江戸時代に存在した参勤交代。大名行列が行き交う中、「下に、下に」の掛け声の元、庶民が土下座するシーンを時代劇で見た人も多いのではないでしょうか。では参勤交代とは一体どのようなものであったのか、ここでおさらいをしてみます。
誰がいつ作った制度?
参勤制度の原型は豊臣秀吉による大阪城や伏見城などに大名の妻子を住まわせたことです。その原型に倣って徳川家康も諸大名の妻子を江戸屋敷に住まわせる制度を立てていました。その時期では諸国から江戸へ向かう「参勤」自体はまだ義務化されていたわけではなく、諸大名が自発的に行っていたにすぎませんでした。その後2代将軍徳川秀忠の時代に、参勤は制度として定着していき、法令として成立させたのは3代将軍徳川家光でした。寛永12年(1635年)に諸大名の決まりごとを定めた「武家諸法度」を改定することで義務化したのです。
表向きの制定理由は?
参勤交代の表向きの制定理由は、大名が将軍に直接面会し忠誠を誓うことを示す服属儀礼のためでした。しかし江戸へ赴く「参勤」と国元へ戻る「交代」を隔年でくり返すことは、諸国の大名にとっては大きな負担となっていました。また経済的負担に加えて、大名の妻子は人質として江戸に住まわせられていたのです。すなわち諸藩にとっての表向きの本音は、諸大名がそれ独自に軍事力をつけ、江戸幕府に反旗を翻すことを防止するための制度と受け取られていました。
大名は何をしたの?
簡単にいえば諸大名は妻子を江戸に預けた状態で、1年毎に江戸と国元を往復していました。今のように公共の交通機関があるわけではないので、移動は全て徒歩でした。徒歩では国元を出立したその日に江戸に到着できるわけではないため、途中幾つかの宿場町で宿泊を重ねることになったのです。さらに今と違って道や橋が整備されているわけではないので、度々通行不能に陥ることもありました。しかし不可抗力の天候でも到着期日が延びるわけではなかったため、道や橋を整備しながら通行したのです。江戸へ到着した後は、将軍に挨拶して初めて参勤が終わりました。
通行の途中には他国の領土や関所、主要な宿場町、そして江戸城下では定められた方法で隊列を組んだ大名行列で通行しなければなりませんでした。また幕府の要人や他国通行時の領主、関所などへの贈り物にも気を配らなければなりませんでした。
どうして廃止になった?
参勤交代は幕府にとっては必要であり、諸大名にとっては不必要な制度でした。すなわち江戸幕府存続中は廃止されることはなかったのです。その参勤交代が廃止されたのは、江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜による大政奉還とともに、江戸幕府が消滅したタイミングによるものでした。廃止されなかったとはいえ参勤交代制度自体はペリー来航をきっかけとした欧米列強の開国要求に伴い、その姿を大きく変えることになりました。
鎖国を続けていた幕府は列強に対抗すべく、軍備増強のため大幅な規制緩和を行い、それまで江戸で人質として住まわされていた諸藩の大名の妻子の国元への帰国を許したのです。これは諸藩にとっては人質解放を意味することとなり、幕府の求心力が大幅に低下することになりました。結果として制度そのものは残っていましたが、制度に従わない藩も続出し、形骸化したものになってしまったのです。
参勤交代だからこそできた数々の経済政策
日本国内の経済は、参勤交代が制度化する前と後ではレベルが全く違いました。江戸幕府は参勤交代を利用することで、日本全国にインフラを張り巡らせたのです。この改革は例え幕府主導とはいえ、一部の大名だけではなし得ないものでした。参勤交代によって全国の大名が幕府との主従関係を名目に江戸と自国の領土を往復することを強いられ、様々な形を通して日本経済の底上げが行われました。
根拠その1、街道や宿場町が必然的に生まれる
参勤交代制度に伴って、各大名は定められた規模や作法に伴い行列を建てて通行しなければなりません。そのためには通行するための道が必要になります。現代のように舗装道路になっているわけではありません。道は常日頃から人手を介して整備されている必要があるのです。そこで木々を伐採し土をならして道を新設するわけですが、人が絶え間なく通行することがなければ、年月を経るに従って道は自然と消滅してしまいます。しかし参勤交代制度が作られることで、必然的に大名行列をなして通行しなければならなくなり、それが道を通行する頻度を上げることになりました。
街道が維持できることは、宿場町が発生することにもつながります。大名行列は出発地点がかなり遠方です。途中どこかで寝泊まりしなければ江戸までの道のりを歩き続けることは不可能なため、自然に宿への需要が高まります。この宿に対する需要は一大名だけではなく、全国の大名に規模が拡大されるため、宿単体では収容しきれないため、宿場町の形成につながったのです。