日本の歴史江戸時代

「参勤交代」とは?実は日本経済を底上げするために実施された?わかりやすく解説

根拠その2、道や橋を整備するきっかけになる

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各大名は、ただ江戸へ向かって移動し続ければよいというものではありません。自国の領土を出立してから、江戸に到着するまでの日数が定められていたのです。しかし道を通行するには困難になった場合や、橋が崩落していた場合には大名行列が定められた期日までに江戸に到着する上で支障が出てきます。そのため道や橋を整備するきっかけにもつながったことでしょう。整備には幕府より普請を命じられた藩があたりましたが、普請によって道や橋などのインフラが維持できるだけでなく、普請作業に向けて人足が雇われることや、人足が作業場で食事などを執り行うことで経済効果が波及していったのです。

根拠その3、江戸の人口を爆発的に増やす

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いかに江戸幕府によって制度化された参勤交代とはいえ、参勤場所が関東武蔵野平野のままであれば、将軍が代を重ねるごとにつれて、幕府の権威は形骸化してしまいます。江戸在住のはずの大名や妻子がお金のやり取りで替え玉にすり替わってしまうことすら起こり得たでしょう。人の衣食住への欲求は根源的なものであるため、その欲求が江戸滞在時に滞りなく満たされていることが必要です。制度基盤の裏にはそれに見合った経済活動が求められ、その根源にあるものは江戸に済む人口そのものに他なりません。

参勤交代制度により、全国の大名は江戸屋敷が必要となり、大名を初めその家臣など江戸に数多くの人が住まわざるを得なくなります。江戸の人口増加は江戸が単に徳川将軍家だけの領土ではなくなり、日本全国を取り仕切るための拠点として江戸が成り立つことにもつながったのです。

根拠その4、雇用を全国レベルで増やす

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参勤交代による江戸と自国の往復においては、藩内だけの従者だけではとてもまかない切れないものがあります。どの藩も石高に応じた隊列を組んだまま自国と江戸の距離を通行するわけではありません。重い荷物を運ぶ人足を現地で調達することになります。人足は農民などから調達することも多いため、農業だけでは生計が成り立たない状況下、貴重な雇用先となっていました。特に飢饉などに見舞われた時期には大名行列の従者の募集は救いとなりました。

また雇用は大名行列だけに限りません。道の整備にも修復要因の募集が行われます。現代と違い、江戸時代は道がアスファルトで固められているわけではありません。通行する直前の大雨で道が土砂や木で塞がれたりすることもあり、道の修復をしなければ通行できない状況に立たされることも少なくありませんでした。そのような場合に地元の人足の雇用が生まれたのです。

根拠その5、庶民の数少ない娯楽としてのパレード

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参勤交代の道中は常に隊列を組む必要がない大名行列も、関所や大きな宿場町、江戸市中や各藩の城下町では所定の作法に従って行列を建てる必要がありました。この行列は庶民にとっては今でいうテーマパークでのパレードにも相当し、娯楽でありました。大名行列といえば、行列に出くわした庶民が土下座するシーンを思い浮かべがちですが、それは尾張・紀州・水戸の御三家だけであり、他の大名行列では、道を開けるだけでよかったのです。

江戸幕府は参勤交代によって日本経済を根本から発展させた

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参勤交代制度ができるまでは、地域の発展は、それぞれの大名により独自に行われただけでした。しかしその発展も必ず各大名の軍事的な利点を考慮しただけにすぎませんでした。それが参勤交代が出来たことによって日本全体のレベルで経済が底上げされたのです。戦国の世に終止符を打っただけでなく、大名の力を利用して生活水準を上げていった江戸幕府の政治力には驚かされますね。

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