その他の国の歴史

キューバ革命の英雄「カストロ」議長をわかりやすく解説

カリブ海に浮かぶ小国キューバ。 この国はアメリカと近いのですが、最近までアメリカとは国交断絶しており、さらにはアメリカと相反している社会主義国家でもあったのです。 そんなキューバを最近まで支えていたのが今回の主人公であったカストロだったのです。 今回はそんなキューバを支えたカストロ議長について解説していきたいと思います。

カストロの青年期

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1926年、キューバの地で農園を営むスペイン人移民の息子として生まれました。農場主の息子であったため、暮らしはそこそこ裕福だったそうです。

しかし、カストロは幼少期のころはかなりやんちゃな子だったそうでイエズス会の私立学校で教育を受けた頃は勉強もスポーツもできるんだけど乱暴ですぐに問題行動を起こすような子供だったそうです。ちなみに、カストロの幼少期は野球にも熱中しており、カストロが最高指導者となったキューバの野球が強いものこのことが一つの理由となったりしています。

1945年にキューバのハバナ大学に入学。この大学にて法律を学び最終的には弁護士として働くつもりでしたが、この頃から少しずつ革命の色を見せていくようになります。

反体制運動に参加

カストロは大学で勉強をする傍で政治活動に参加するようになっていきました。

1948年にラテンアメリカの学生運動の連合を図り革命反乱同盟 (UTR)に参加。コロンビアを訪れ、ボゴタ暴動に参加したりするなどかなりやんちゃだったそうです。

そして1950年にハバナ大学を卒業した後は弁護士として働きながら正統党から国会議員となるために選挙運動を開始。しかし、1952年の議会選挙ではフルヘンシオ・バティスタ率いるクーデターによって全てが無効となり、カストロは激しい怒りを覚えることになります。

そして、自分の政治活動を頓挫させた独裁者フルヘンシオ・バティスタを倒すために地下活動を行なっていくことに繋がって行ったのでした。

7月26日活動におけるカストロ

大学卒業から3年後の1952年。カストロはバティスタを打倒する為の組織を結成。翌年には160名の仲間とともにバティスタのモンカダ兵舎を襲撃するなどの行動を行います。しかし、この襲撃は失敗。多くの仲間が逮捕・処刑され、カストロ自身も投獄されることになりました。

しかし、カストロは諦めずに7月26日活動を獄中にて結成し、革命活動にますます力を入れていくようになります。

1955年にカストロはバティスタ政権の恩赦で釈放。その後かつてトロツキーが亡命し、かなり社会主義の革命運動が活発に行われているメキシコに渡り、キューバの政権打倒に力を注ぐようになります。そしてこのメキシコで出会ったのがキューバ革命のもう1人の英雄であるチェ・ゲバラでした。

キューバ革命

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1956年12月2日、カストロとゲバラを含む男性82人のグループはグランマ号という8人乗りのヨットに82人で乗り込み、メキシコからキューバへ向かい始めます。もちろん目的はバティスタを倒すため。彼らはキューバに上陸したが、これを予測していたバティスタ政権側の兵士たちは直ちに銃撃戦を開始。82人のうち64人の男たちが命を落とし、生き延びた18人のグループは山中に逃げ延びることになります。

しかし、キューバの国民はバティスタの独裁にかなり苦しめられており、国民はこぞってカストロを支援するようになります。カストロは失った兵員を埋めるために新しい戦士を募り、革命を行う活動をしていき、ゲリラ戦を行いながら行軍を開始しました。

革命の成功

カストロが指揮する革命軍は1958年になるとキューバのシエラ・マエストラ山脈付近の街を次々と占領。バティスタ政権の支持は急速に落ち込むようになっていき、政権の後ろ盾を担っていたアメリカさえもバティスタを見捨てるようになっていきました。

これを受けてカストロは首都ハバナへと進軍を開始。最終的には800人にまで膨らんだ革命軍は首都ハバナの近郊にまで進軍して、バティスタはドミニカへ亡命。カストロは首都ハバナを占領し、ここにキューバ革命は達成されたのでした。

その後、首相に就任したフィデルはキューバ共産党による一党制を確立。共産党の党首である第一書記の地位にあったフィデルは国家の最高指導者として君臨しました。

冷戦の中のキューバ

こうしてキューバの最高指導者となったカストロでしたが、彼の活動によってキューバの取り巻く環境は見る見るうちに変わっていくようになっていき、さらにはキューバどころか世界に多大な影響を与えることになっていきました。

アメリカとの関係悪化

 

1959年1月の革命によってフィデルが全権を掌握すると、アメリカ合衆国は直ちにこれを承認。アメリカからしたらアメリカと仲がいい国々とは仲良くしたいと考えていたのです。

しかし、1960年にカストロはキューバ在住のアメリカ人が所有する資産を没収。さらにはアメリカが所有する資産及び企業を国有化しました。

カストロからしたら貧しい人が豊かになるためには土地を持っていく必要があるので大企業がキューバの土地を持っていることはダメなことでした。しかし、この出来事がきっかけでアメリカとの関係は急速に悪化。アメリカはキューバのカストロ政権を倒すために次々と策を打ち始めることになるのでした。

カストロ政権転覆を決定したアメリカは、CIA指揮の下でブルータス作戦が敢行。

1961年にはカストロを敵視している亡命部隊が親米であったグアテマラで軍事訓練をさせた後ひそかにキューバに侵攻。さらにはアメリカのアイゼンハワー大統領はキューバに対してキューバの最大の産業である砂糖の輸入停止措置を取る形で禁輸措置に踏み切りました。

これに反発したカストロは、弟のラウル・カストロを冷戦下でアメリカ合衆国と対峙していたソ連の首都モスクワに派遣し、1960年2月にはソ連は1億ドルの借款供与、砂糖買い付け、武器売り渡しを柱とする経済協力協定を結びました。

ソ連からしたらアメリカのマイアミまで50キロのところにあるキューバが社会主義国家となってくれたらこれほどいいものはありません。そしてついに世界を滅亡一歩手前にまで追い込むあの事件が起こることになるのでした。

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