キューバ革命の英雄「カストロ」議長をわかりやすく解説
キューバ危機の勃発
アメリカと目と鼻の先に友好国ができたフルシチョフはアメリカの攻撃に対する抑止力としてキューバにミサイルを配置するという考えを思いつき、キューバ政府に対して核弾頭を搭載したミサイルを配置することを求めるようになっていきました。
これに対してカストロはソ連政府がキューバに弾道ミサイルを配備することを同意。
フルシチョフに書簡で、「核攻撃はアメリカに対して行使されるべきだ」と語ったと言われています。1962年10月15日にアメリカがソ連によってキューバにミサイル発射装置の建設を行っていることを察知。ジョン・F・ケネディ大統領率いるアメリカ政府は10月22日にその事実を公表し、キューバに向かう船を止めさせ海上封鎖を実行しました。
アメリカ国民は「ついに核戦争が起こるのか」と悲観的な態度を取るようになり、核戦争に備えて物品の備蓄や核シェルターの設置など次々と核戦争に突入する覚悟を固めていくようになっていきます。
もちろん、アメリカとソ連も核戦争は望んではいません。フルシチョフはケネディに対してトルコに配備しているミサイルを撤去すれば直ちにキューバから核ミサイルは取り除くと土壇場で譲歩。アメリカはトルコからミサイルを撤去するのと引き替えに、ソビエトがキューバからミサイルを撤去することで合意し、世界滅亡の危機であるキューバ危機は終わりを迎えました。
しかし、これに激怒したのがカストロ。カストロからしたら核戦争が起こってもいいと考えており、ソ連のとたんの弱腰にかなり不満を抱いていたようです。
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キューバ危機の後のカストロ
キューバ危機の後、カストロはキューバを社会主義国家へと変えていくために様々な改革を行っていくようになります。この改革はキューバを良くも悪くも決定づける結果となっていきました。
経済政策
キューバという国は昔からサトウキビやラム酒、葉巻などといったいわゆる一つの産業を重点的に行っているモノカルチャー経済の国でした。サトウキビの一大産地として知られていますが、このサトウキビをアメリカが禁輸したことによってかなり危機的な状態へと陥ってしまうことになります。
そこで、カストロは仲が良くなったソ連との間でサトウキビを貿易する協定を結び、なんとか経済を安定させることに成功させたのです。
しかし、社会主義という経済体制の弊害が出たり、1991年にソ連が崩壊したことによって安定した輸出国が消滅し経済が苦しくなってしまうなどの経済危機に落ち込むことに。カストロは政府は経済・財政改革措置を実施し始め、1993年より外貨所持と使用の解禁、独立採算制の農業組合制度の設立承認、自営業の一部許可といった措置を開始。
1995年には外資系の企業も設立することを認める措置も発表されました。こうしてキューバは2005年にはの11.8%の経済成長を達成したのですが、経済の安定にはつながっておらず、今のキューバの悩みの種となってしまうことになるのでした。
外交政策
フィデルはアメリカを敵視する一方でアメリカと妥協したソ連に対しても不信感を募らせた。だが、ソ連との友好関係はキューバにとって死活問題であり、キューバ危機の後も基本t期にはソ連の外交政策を支持していくことになります。
しかし1991年にはソビエトが崩壊するとキューバは孤立の状態となっていき、かつての敵国であるアメリカとの関係の改善を目指しているなど基本的な外交転換も行っていくようになりました。
また同じ社会主義国家である中国との関係もよいものであり、アメリカの対キューバ禁輸措置が続く中でキューバにとって中国は食料・経済支援などを頼れる欠かせない国となっています。
晩年とその後
キューバ成立から一貫してキューバを支えていったカストロですが、2000年代に入り高齢により体力が衰えていきカストロの特徴の一つであった長時間の演説が徐々に短くなっていきます。
そして2011年に一貫して就任していたキューバ共産党第一書記を辞任。弟のラウル・カストロに後を託す形で政治から身を引くことになります。
その後も勢力的に外交には関わっていくことになるのですが、2016年11月25日に死去。
長年にわたりキューバを愛し、そして支えていった人物だったのです。