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「関白」って何?摂政や太閤、太政大臣、征夷大将軍とはどう違う?

家庭の中でご主人がどっしり構えて威張っている様子を「亭主関白」などという言葉で言い表すことがあります。この「関白」とは、日本の歴史上、天皇の補佐役として強い権力を持つ役職の名称のこと。でも他にも、確か「摂政」や「太閤」といった称号もありますよね。また、朝廷の最高役職として「太政大臣」などという役名を耳にすることもあります。さらに、鎌倉幕府や江戸幕府が開かれたときには「征夷大将軍」という役職も。それぞれ、どのような違いがあるのでしょうか。今回の記事では「関白とは何か」という点にスポットを当てつつ、歴史上存在した様々な最高位の役職について考えていきたいと思います。

関白、摂政、太閤、大臣、将軍……役割と違いについて解説!

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「かかあ天下」の反対語として使われることも多い「亭主関白」。強い夫・強い父親を象徴する言葉として使われる「関白」とは、どんな役職だったのでしょう。「摂政」や「太政大臣」より位が上なのでしょうか。それぞれの役職の序列とは?まずは基本情報として「関白」をはじめとする各役職がどういうものなのか、由来や期限なども含めて見ていくといたしましょう。

藤原氏がほぼ独占:関白とは何か

関白(かんぱく)とは、成人している天皇を補佐するための官職です。

言葉としては、中国・前漢時代の故事「関(あずか)り白(もう)す」に由来。その当時、漢王朝には霍光という権力者がいて、帝は霍光を恐れて、何をするにもまず霍光にお伺いを立てていたところから生まれた表現が、日本の「関白」という役職の語源であると考えられています。

関白の特徴は、あくまでも天皇の補佐役・アドバイザーであること。物事の最終決定者は天皇です。

しかも、一般的な政治体制の中に含まれる役職ではなく、特別な存在。何事にもとらわれず全ての権限を持ち、天皇をも動かすことができるという、実質上、公家の最高位となるポジションです。

日本史上、初めて関白となったのは、藤原基経という人物。就任時期はだいたい880年代。まだ「関白」という明確な定義がなかったため、藤原基経という人のいつ頃のどんな行動を「関白」と表現するべきか、見解が分かれることがあるのだそうです。

以後、関白という役職は概ね、藤原の家柄で大臣の経験者が取り仕切ることとなります。

もちろん、ただ関白になって威張り散らすだけではなく、天皇にちゃんとアドバイスできなければなりません。ですので、権力も人脈も学も知識もある高貴な家柄の藤原氏の誰が適任だったのでしょう。しかし結局、藤原氏が絶大な権力を握ることとなります。

未熟な天皇の代行:摂政とは何か

「関白」と並んでよく目にする歴史用語に「摂政(せっしょう)」というものがあります。

摂政とは、天皇がまだ幼少であったり、女性であったり、病弱で政務に支障がある場合に、天皇の勅命を受け天皇に代わって政務を行う役職のこと。あるいは、天皇に代わって政務を行うことそのものを「摂政」と呼びます。

関白との大きな違いは、天皇が成人していない(女性や病人の場合も含む)という点です。

さらに、天皇に代わって政務を代行するという点。この場合、政治の中心は摂政に置かれるということになります。

古代の話と思いきや、現行の憲法にも摂政についての記述があるとのこと。現代にも通じる制度なのです。

では、摂政はいつ頃から始まったのでしょうか。

最初に摂政となった人物は飛鳥時代の人、6世紀後半、名は厩戸皇子(うまやどのおうじ・後の聖徳太子)という人物です。この時の天皇は推古天皇といい、女性でした。厩戸皇子は推古天皇の甥にあたります。須古天皇は蘇我氏をはじめ有力豪族たちとの争いを避けるべく、聡明な厩戸皇子を起用。これが、日本史上最初の摂政であったと考えられています。

実は秀吉だけじゃない:太閤とは何か

太閤(たいこう)とは、摂政や関白を自身の子供や兄弟に譲り職を退いた後の人に与えられる称号です。

つまり、摂政か関白を経験した人、ということになります。

基本的に役職を引退した人のことなので、「太閤」という職業があるわけではなさそうです。

大企業の「名誉会長職」や、プロ野球の「終身名誉監督」みたいなものでしょうか。

退いたといっても、それまでの人脈や経験があり、知識も豊富。現職の摂政や関白より権力を持っていることもあります。なかなか厄介な存在です。

現在では、太閤=豊臣秀吉というイメージが定着していますが、古くから「太閤」と呼ばれる人は何人も存在していました。

しかし、太閤秀吉の存在は強烈。それだけ、秀吉の力が大きかったということなのでしょうか。

人格者だけがなれる名誉職:太政大臣とは

太政大臣(だじょうだいじん)とは、太政官という政治の最高機関のトップのことです。

遠い昔、701年に大宝律令が成立して日本の政治体制が体系化(律令制)するより前の時代では、太政大臣は天皇と並ぶ地位にありました。

初代の太政大臣は、あの中大兄皇子の弟、大友皇子であると考えられています。中大兄皇子が即位し天智天皇となった後で、大友皇子を太政大臣に任命しました。671年のことです。

現代では一般的に、太政大臣といえば、大宝律令の後、律令によって決められた職務のことを指します。

最初に述べた通り太政官の長官にあたりますが、具体的な仕事が割り振られるわけではなく、いわゆる「名誉職」に近いものだったようです。

「世の手本となるような素晴らしい人格を持った人物」が太政大臣になるに相応しいとされており、そういう人が世に現れたら太政大臣に任命する、という仕組みになっていました。

実際、大宝律令が出された後でも、しばらくの間、太政大臣に任命される人はおらず、空席の状態が続いていたのだそうです。

一方で、満を持して太政大臣に任命されると、すべての人がひれ伏すような状態に。天皇より重んじられることもありました。

もとは蝦夷討伐総大将:征夷大将軍とは

もうひとつ、時代劇などでよく見かける「すごく偉い役職」に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)というものがあります。

「征夷」とは、「蝦夷を征討する」という意味を持つ言葉です。蝦夷(えぞ)とはその昔、朝廷から遠く東のほう(関東や東北)の総称でした。

飛鳥時代や奈良時代の頃、都は現在の奈良県にありました。都の人々にとって、東北地方はまだまだ未開の地。朝廷には、関東や東北方面を制圧するための専門部署が設けられていたのです。

征夷大将軍とは、もともとは、朝廷に所属し特命を受けた特別部隊の総大将でした。

有名どころでは、奈良時代末期の大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)や平安時代の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)など。朝廷の力を象徴する屈強な軍隊を指揮し、自ら先頭に立って、恐ろしい魔物が巣食っているかもしれない未開の地へ赴く勇気ある武人。当然、遠い戦地では、天皇の命令も届かないため、すべての決定権は征夷大将軍が持つことになります。状況によっては、天皇に並ぶ権限を持つ役職である、と解釈してよさそうです。

これが、源頼朝の登場により変化していきます。

平安の世が終わり武士の時代へ。幕府を開いたとき、頼朝は朝廷に対し、それ相応の地位を望みました。しかし京都では関白だの右大臣だの太政大臣だの、特別な権力を持つ役職がいっぱいいて、権力がかぶります。

そこで目を付けたのが征夷大将軍という役職でした。京都から離れた東方へ出向いているときなら、天皇の代わりに様々な決定を下すことができる……。東北攻めをするという理由で征夷大将軍となり、京都から遠く離れた鎌倉に幕府を開きます。

朝廷と幕府、公家と武家、天皇と征夷大将軍。これ以後、室町、江戸と、二つの勢力による体制が確立していくことになるのです。

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