室町時代戦国時代日本の歴史

戦国の出来過ぎ君「鍋島直茂」いつの間にか主家に取って代わった理由とその生涯を解説

戦国時代は、家臣が主君を倒して取って代わる「下剋上」が珍しいことではなくなっていました。主にそれは武力で行われるものでしたが、今回ご紹介する鍋島直茂(なべしまなおしげ)は、有能すぎたために、主家に尽くした結果が下剋上となってしまった人物です。何においても「出来過ぎ君」だった彼の生涯を、紐解いてみましょう。

思わぬところから主と義兄弟となる

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不明。 – 鍋島報效会所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

鍋島直茂は龍造寺氏に仕える家に生まれました。いったん養子に出されましたが、龍造寺氏と少弐氏の内紛によって生家に戻ることとなり、その後主君・龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の実母が自分の父と再婚したために、なんと主君と義兄弟になったのです。若い頃からずっと主君のそばに控えていた直茂は、忠実な家臣として成長していったのでした。

いったん養子に出るも、主家のゴタゴタで戻ってくる

天文7(1538)年、直茂は肥前(長崎県)の戦国武将で龍造寺氏の家臣だった鍋島清房(なべしまきよふさ)の二男として誕生しました。二男だったため、主の龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)の命令で他の家に養子に出されたのですが、戻ってくることになります。

というのも、龍造寺氏の主君である少弐氏とその側近・馬場頼周(ばばよりちか)の策謀により、急速に力をつけて警戒されていた龍造寺氏の一族が誅殺されてしまったからです。直茂の養子先は少弐方だったため、直茂は父によって呼び戻されたのでした。

主君の実母が自分の父と再婚!なんと、主君と義兄弟に

その頃、主家である龍造寺氏は、少弐氏による誅殺により、老齢の龍造寺家兼と曾孫の隆信が残されただけとなっていました。

そして家兼が亡くなると隆信が跡を継いだのですが、そこで、隆信の実母・慶誾尼(けいぎんに)がなんと、直茂の父・清房のもとに押しかけ女房してきたのです。慶誾尼からすれば、息子の隆信と同年代の直茂との関係を近くすることで、将来の重臣にしようと考えていたのでした。

こうして直茂は主君・隆信と義兄弟の関係となったのです。後に「肥前の熊」と呼ばれ、残忍な性格がクローズアップされる隆信ですが、直茂のことは信頼し、良い関係を築きました。直茂もまた「龍造寺の仁王門」と呼ばれるようになり、隆信を支えていったのです。

隆信のそばで数々の戦いに参加し、肥前統一の原動力になる

image by PIXTA / 5795425

慶誾尼の願いどおり、直茂は隆信の第一の側近となり、隆信が乗り出した肥前統一や周辺勢力との戦いで功績を挙げていきます。その最たるものが、当時九州でトップクラスの強さを誇った大友氏との戦いでした。隆信の名を知らしめるきっかけとなった「今山の戦い」の裏には、直茂の発言があったのです。

九州の強敵・大友宗麟に攻め込まれる

少弐氏を滅ぼした隆信は、急速に力をつけ、周辺勢力を制圧していきました。しかしそれに危機感を抱いたのが、豊後(大分県)の有力戦国武将・大友宗麟(おおともそうりん)です。九州に覇を唱えようとしていた宗麟は、隆信を見過ごせない存在と感じ、ついに兵を差し向けてきたのでした。この戦いが「今山の戦い」です。

宗麟の弟・親貞(ちかさだ)に率いられた大友の軍勢は6万とも8万とも言われるほどの大軍。対する龍造寺軍はたったの5千でした。まともにぶつかれば勝ち目はありません。

この時、隆信に籠城を進言したのは直茂だったそうです。直茂の言を容れた隆信は籠城戦に突入しますが、このままでは兵糧が尽きて負けてしまいます。

どうすればいいのか…その時、再び隆信の前に進み出たのが直茂だったのです。

絶体絶命の危機に、予想外の夜襲を進言する

直茂は隆信に対し、「敵はすでに勝利を確信しており、宴会まで開いているそうです。気が緩んでいるのは確かですから、今こそ夜襲をしかけるべき」と言いました。

しかし、龍造寺家臣たちの多くは夜襲に消極的だったのです。大友軍に勝てるわけがないと思っていたのでしょう。

ただそこで、思わぬ助け舟が出されました。進み出てきたのが、隆信の実母である直茂の義母となった慶誾尼だったのです。

彼女は「これではまるで、猫を前にしておびえる鼠のよう。直茂に任せて夜討ちをすべきです!」と檄を飛ばし、隆信もそれを容れて夜襲決行の決断を下したのでした。

夜襲が成功し、大友方の大軍を打ち破る!

500の兵を任され、奇襲部隊の指揮を任された直茂。彼はそっと大友の陣に近づき、いきなり鉄砲を撃ちかけ、混乱する大友勢に「寝返りだ!」とのウソの情報を流し、大混乱に陥れたのです。その隙に乗じて龍造寺方の武将が敵陣に突入して敵将を見事討ち取り、龍造寺方は見事な大勝利を遂げたのでした。

この戦いで大友氏という強敵を退けた隆信は、その名を九州に轟かせ、周辺の大村氏や有馬氏などを降して肥前統一という偉業を成し遂げます。その強さから「肥前の熊」と呼ばれるようになった隆信は、一気に九州制覇の有力候補に躍り出ることとなりました。

そんな隆信にとって重臣中の重臣となった直茂は、以後も重鎮として存在感を発揮していきます。天正6(1578)年に隆信が隠居して息子の政家(まさいえ)に家督を譲ると、直茂は政家の後見人を任されたのです。隆信からの信頼は絶大で、隆信は「自分の死後は何事も直茂に相談せよ」と政家に言い聞かせていたとか。

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