四日市ぜんそくの背景
戦後の混乱期を乗り切った日本は、朝鮮戦争での特需をきっかけに経済復興を遂げていきます。名古屋を中心とする中京工業地帯も高度経済成長期に急成長を遂げました。その中でも四日市は石油化学コンビナートの誘致を積極的に行い、産業を振興。四日市ぜんそくの背景となった高度経済成長や石油化学コンビナートについてまとめます。
日本の高度経済成長
1950年に始まった朝鮮戦争で日本はアメリカ軍に物資を供給する拠点となりました。そのため日本は好景気に沸きます。さらに、好調な海外経済や輸出の拡大などにより日本の好景気は拡大しました。
1955年から始まる神武景気の到来です。日本の経済活動は1956年に戦前の水準を回復。『経済白書』で「もはや戦後ではない」ということばが使われるほどでした。
神武景気以降、岩戸景気、オリンピック景気、いざなぎ景気など1973年まで好景気が続く空前の繁栄を日本は享受しました。日本経済は毎年10%以上の高成長を遂げ続ける高度経済成長に突入します。
1960年に池田勇人内閣は10年間で所得を倍増させると宣言しましたが、それを上回る高成長を実現しました。
重工業化が進んだ中京工業地帯
名古屋を中心とする中京工業地帯は愛知・岐阜・三重にまたがる日本屈指の工業地帯です。もともと、製陶業や毛織物産業などの軽工業が栄える地域でしたが、高度経済成長期に重工業化が進みます。
中京工業地帯を支えているのは豊田市を中心とする自動車産業と四日市周辺の石油化学コンビナートです。近年は航空産業の発展も目覚ましく、航空機部品の7割を生産。生産額はさらに増加すると見込まれています。
中京地域は大きな河川や用水があるため工業用水の確保が容易でした。そのため、大規模な工場を多く建てることができたのです。こうして、工業生産力が目覚ましく増加した中京工業地帯。現在では国内第一の生産額を誇るまでになっています。
四日市の石油化学コンビナート建設
石油や石炭を高温で処理すると化学変化を起こして多くの工業原料を得ることができます。石油を原料として行う化学工業は石油化学工業といいました。石油を算出しない日本では、石油は海外からの輸入に依存。そのため、石油化学工業は広大な敷地があり、市場に近い太平洋沿岸に立地します。
この条件に最適な場所の一つが大都市名古屋に近い四日市市でした。四日市市は積極的に石油化学工業の企業を誘致。その結果、石油の精製から石油製品の出荷までを一貫して行う石油化学コンビナートが四日市市にできあがりました。
四日市には戦前からあった石油化学工場に加え、1955年以降に埋め立てなどで新たな工場が建設されます。こうして、四日市市に国内屈指の石油化学工業地帯ができました。
四日市ぜんそくの発生と原因
高度経済成長期、四日市市には大規模な石油化学コンビナートが形成されていました。コンビナートの操業が始まると、工場からの排煙や振動・騒音などにより周辺住民から苦情が上がります。なかでも、ぜんそくの症状を訴える患者が多くみられました。四日市ぜんそくのはじまりです。
最初に始まった海の汚染
四日市コンビナート周辺で最初に現れたのは海の汚染でした。もともと、伊勢湾北部は豊かな漁場でしたが1958年頃から、四日市周辺でとれた魚が石油臭いといった苦情が寄せられるようになります。
1960年には異臭魚による被害額が8000万円近くにのぼり、漁民の生活を脅かしました。漁民の抗議行動を受け、三重県は「伊勢湾汚水対策推進協議会」を設置、魚の異臭の原因を調べました。調査の結果、魚の異臭の原因はコンビナートの工場廃液の油分を魚が吸収することで発生すると結論付けます。
また、四日市海上保安部の巡視艇は四日市港南部の埋め立て地のコンクリートがボロボロに溶けていることを発見。調査のため海水をくみ取ろうとしたところ、強い痛みが走りました。痛みの理由は海の水が強い酸性だったからです。
大気汚染の深刻化と四日市ぜんそくの発生
海の汚染が明らかになった後、大気汚染も発生しました。1959年、四日市の第一コンビナートが操業を始めると、周辺住民から騒音や工場の排煙、振動、異臭などへの対策を望む声が上がります。特に、工場の風下にあたる塩浜地区や磯津地区でぜんそくなどの呼吸器に関する病気で苦しむ患者が急増しました。
原因を探るため、三重大学がコンビナート周辺の亜硫酸ガスなどの計測を実施。1961年に三重大学は、磯津地区は冬の季節風が吹く時期にコンビナートの風下にあたるため亜硫酸ガス汚染の影響を強く受けると発表します。
さらに調査を進めると、ぜんそくなどの患者はコンビナート周辺に集中していることが明らかになりました。工場から排出される亜硫酸ガスがぜんそくなどの原因となっている可能性が高まったのです。